物部守屋 (ものべのもりや)
【概説】
古墳時代末期から飛鳥時代にかけて大和政権で活躍した大連(おおむらじ)。新興勢力である大臣(おおおみ)の蘇我馬子と、仏教受容の是非や皇位継承をめぐって激しく対立した。587年の丁未の乱(ていびのらん)で馬子や厩戸皇子(聖徳太子)らの連合軍に敗れて滅び、これにより古代の有力豪族である物部氏は没落した。
崇仏・排仏論争と二大豪族の対立
6世紀半ば、百済の聖明王から欽明天皇へ仏像や経典がもたらされた(仏教公伝)。この新たな信仰の受容をめぐり、朝廷内は二分された。渡来系氏族を掌握し財政を握る大臣の蘇我馬子が「崇仏(受容)」を唱えたのに対し、軍事や刑罰、神事を司る大連の物部守屋(および中臣勝海ら)は、古来の「国神(くにつかみ)」の怒りを買うとして「排仏(拒絶)」を強硬に主張した。
この「崇仏・排仏論争」は単なる宗教対立にとどまらず、旧来の伝統的な氏族制秩序を守ろうとする物部氏と、新技術や渡来系人材を取り込んで権力を拡大しようとする蘇我氏による、主導権をめぐる政治闘争としての側面が強かった。疫病が流行した際、守屋はこれを「仏教を受け入れたための祟り」であるとし、蘇我氏が建立した寺院を焼き払い、仏像を難波の堀江に投げ捨てるなど、対立は極限に達した。
皇位継承をめぐる決戦と「丁未の乱」
対立が決定的なものとなったのは、敏達天皇、続く用明天皇の崩御に伴う皇位継承問題である。守屋は敏達天皇の異母弟である穴穂部皇子(あなほべのおうじ)を擁立しようと画策したが、先手を打った蘇我馬子によって穴穂部皇子は暗殺された。これにより政治的孤立を深めた守屋は、本拠地である河国渋川郡(現在の大阪府八尾市付近)に退き、一族を率いて挙兵の準備を進めた。
587年、蘇我馬子は諸皇子や豪族たちを糾合し、物部守屋討伐の軍を起こした。これが丁未の乱(渋川の戦い)である。守屋は稲城を築き、木の上から強弓を引いて蘇我軍を大いに苦しめた。しかし、戦況が膠着するなか、若き厩戸皇子(のちの聖徳太子)が白膠木(ぬるで)で四天王の像を彫り、勝利を祈願して軍の士気を高めた。最終的に、守屋は蘇我方の兵士である迹見赤檮(とみのいちい)に射落とされて戦死し、物部氏の軍勢は壊滅した。
物部氏滅亡の歴史的意義
物部守屋の敗死による物部氏本宗家の滅亡は、日本古代の権力構造を大きく変貌させた。それまで大和政権を支えてきた二大豪族(大臣の蘇我氏と大連の物部氏)の均衡が崩れ、蘇我氏の権力一極集中(蘇我専制)が確立したのである。馬子は守屋の後ろ盾を失った崇峻天皇を即位させるが、のちにこれを暗殺し、初の女帝である推古天皇を擁立してさらなる全盛期を築くこととなる。
また、排仏派の巨頭であった守屋の滅亡により、仏教の国家公認が決定づけられた。乱の後、厩戸皇子は誓願通りに摂津国に四天王寺を、蘇我馬子は飛鳥の地に法興寺(飛鳥寺)を建立した。これらを契機として、日本最初の本格的な仏教文化である飛鳥文化が開花し、中央集権的な国家体制の形成に向けた文化・思想的土台が整備されることとなった。