市川左団次 (いちかわさだんじ)
【概説】
明治時代の歌舞伎界を代表する名優(初代)。九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎とともに「団菊左(だんぎくさ)」と称され、明治歌舞伎の黄金時代を築き上げた。劇場の経営や新歌舞伎の開拓にも尽力し、日本の近代演劇への橋渡しとして重要な役割を担った。
「団菊左」と称された明治歌舞伎の頂点
初代市川左団次は、江戸時代後期の天保13年(1842)に大坂で生まれた。父は七代目市川八百蔵(のちの歌舞伎役者・市川男女蔵)であり、幼い頃から舞台に立ったものの、若手時代はなかなか役に恵まれず長い下積み生活を経験した。しかし、明治維新後の1869年(明治2年)に初代市川左団次を襲名すると、その実力と堂々たる体躯、豪快な演技が次第に評価されるようになる。
明治時代中期の歌舞伎界は、九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎、そしてこの初代市川左団次の3人が牽引し、彼らの頭文字をとって「団菊左」と並び称された。団十郎が史実に基づいた「活歴物」で演劇の高尚化を目指し、菊五郎が文明開化期の風俗を取り入れた「散切物(ざんぎりもの)」で人気を博したのに対し、左団次は伝統的な荒事や世話物を得意とし、豪快かつ男気あふれる役柄で大衆から絶大な支持を集めた。
河竹黙阿弥作品の体現者
左団次の人気を不動のものとしたのは、幕末から明治にかけて活躍した大狂言作者・河竹黙阿弥との提携である。黙阿弥は左団次の男伊達の魅力や力強い芸風を見抜き、彼のために多くの名作を書き下ろした。
特に『極付幡随長兵衛(きわめつきばんずいちょうべえ)』の幡随院長兵衛や、『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』の河内山宗俊、『樟紀流花見幕張(けいあんたいへいき)』の丸橋忠弥などは左団次の「当たり役」として知られ、現在でも歌舞伎の代表的な演目として上演され続けている。これらの作品を通じて、左団次は江戸の情緒や庶民の反骨精神を明治の世に見事に表現し、近代化への急激な変化の中で失われつつあった江戸文化の気風を舞台上に留める役割を果たした。
明治座の創設と新歌舞伎への挑戦
左団次の功績は単なる俳優としての活躍にとどまらず、興行師(座元)としての劇場経営や、新しい演劇の模索にも及んだ。1893年(明治26年)、彼は東京・日本橋浜町に明治座を建設し、自ら座元となって興行を行った。明治座は最新の設備を備え、東京を代表する大劇場の一つとして当時の文化の中心地となった。
さらに左団次は、明治政府の進める文明開化の波のなかで、従来の歌舞伎の枠にとらわれない新しい脚本の導入を試みた。松井松葉ら外部の知識人や劇作家を起用し、いわゆる「新歌舞伎」の先駆けとなる作品を上演した。九代目団十郎らが中心となった「演劇改良運動」が上流階級向けの堅苦しいものに傾きがちであったのに対し、左団次は大衆の娯楽としての歌舞伎の魅力を保ちながら、近代的な要素を取り入れようと現実的な改革を進めたのである。
歴史的意義と次世代への継承
初代市川左団次は、江戸時代の伝統的な歌舞伎の技術を極めながらも、近代という新しい時代状況に適応しようとした進取の気性に富む演劇人であった。1904年(明治37年)に彼が世を去った前後に、団十郎と菊五郎も相次いで没し、「団菊左」の時代は終焉を迎えた。これにより、江戸から続く伝統歌舞伎はひとつの区切りを迎えることとなる。
しかし、彼の演劇革新への情熱は、息子の二代目市川左団次に強く受け継がれた。二代目はのちに劇作家の小山内薫とともに自由劇場を創設し、西洋の近代劇を日本に紹介する新劇運動の旗手となるとともに、坪内逍遥や岡本綺堂らの新作歌舞伎を積極的に上演し、日本演劇史に決定的な変革をもたらした。初代左団次が蒔いた「新時代への対応」という種は、次世代において見事に花開き、現代演劇へと繋がる確固たる礎となったのである。