将軍後見職 (しょうぐんこうけんしょく)
【概説】
幕末の1862年(文久2年)、文久の改革の一環として江戸幕府に新設された役職。若年の第14代将軍徳川家茂を補佐するため、一橋家の徳川慶喜が就任した。幕政の最高意思決定に深く関与し、公武合体派の主導権を握る上で重要な役割を果たした。
設置の背景と文久の改革
1862年(文久2年)、薩摩藩の最高実力者である島津久光は、兵を率いて上京し、朝廷の権威を背景に幕政改革を推進しようと企図した。久光の働きかけを受けた朝廷は、勅使として大原重徳を江戸に派遣し、幕府に対して三事(三カ条の改革案)を要求した。
この要求の核心は、かつての安政の将軍継嗣問題で井伊直弼ら南紀派に敗れ、安政の大獄で隠居・謹慎処分を受けていた一橋派の復権であった。幕府はこの要求を受諾せざるを得ず、いわゆる文久の改革が断行された。この結果、新設された政事総裁職に前越前藩主の松平慶永(春嶽)が就任し、同じく新設された将軍後見職には一橋家の徳川慶喜が任命されたのである。
将軍後見職の役割と特質
将軍後見職は、弱冠17歳であった第14代将軍徳川家茂を後見し、事実上の幕政の最高責任者として国難にあたることを目的としていた。江戸時代を通じて、幼少や病弱な将軍を大御所や側用人、老中が補佐する例はあったが、「将軍後見職」という正式な役職が設けられたのはこれが初めてであった。
特筆すべきは、この人事が幕府内部の自発的な決定ではなく、外様大名(薩摩藩)の武力による圧力と、朝廷の勅命によって強制されたという点である。これは、徳川家康以来の「朝廷を統制し、譜代大名を中心に国政を運営する」という幕府の伝統的な支配体制が完全に崩壊したことを象徴する出来事であった。
徳川慶喜の動向と公武合体運動
将軍後見職に就任した徳川慶喜は、松平慶永や京都守護職に就任した松平容保(会津藩主)らとともに、朝廷と幕府の結びつきを強める公武合体運動を推進した。慶喜は将軍家茂の数度の上洛に随行、あるいは名代として京都へ赴き、尊王攘夷派が台頭する複雑な京都政局の対応に奔走した。
1863年(文久3年)の八月十八日の政変で長州藩ら急進的な尊攘派が京都から追放されると、慶喜は朝廷から新設の禁裏御守衛総督に任命された。その後も将軍後見職と兼任しながら参預会議などに加わり、雄藩の介入を牽制しつつ、幕府権力の回復と再編を図るという極めて高度な政治的駆け引きを展開した。
歴史的意義とその後
将軍後見職は、幕末の混乱期において徳川慶喜が政治の表舞台に復帰し、その後の政治的覇権を握るための決定的な足場となった。慶喜はこの職権と持ち前の政治力を駆使して、事実上の「副将軍」あるいは「幕府の最高指導者」として君臨した。
1866年(慶応2年)7月、第二次長州征討の最中に大坂城で将軍家茂が急死すると、慶喜は徳川宗家を相続した。同年12月に第15代将軍に就任したことで将軍後見職の役割は実質的に消滅したが、この役職が存在した約4年間は、幕府が自らの権威を懸命に維持しようと模索しながらも、最終的に大政奉還へと向かっていく激動の過渡期であったと言える。