尾上菊五郎 (おのえきくごろう)
【概説】
幕末から明治時代にかけて活躍した歌舞伎役者、五代目尾上菊五郎のこと。劇作家の河竹黙阿弥と提携し、江戸情緒を色濃く残す世話物(白浪物や散切物)を得意とした。九代目市川団十郎、初代市川左団次とともに「団菊左」と称され、明治歌舞伎の黄金期を築き上げた。
音羽屋の系譜と五代目の誕生
五代目尾上菊五郎(本名:寺島清)は、江戸市村座の座元であった十二代目市村羽左衛門の次男として生まれた。幼少期より舞台に立ち、市村家橘を名乗って人気を集めた後、1868年(慶応4年)に母方の祖父の跡を継ぐ形で五代目尾上菊五郎を襲名した。屋号は音羽屋である。彼が活躍した幕末から明治初期は、政治体制のみならず文化や風俗も激変する転換期であったが、菊五郎はその類まれなる才能と容姿で時代の荒波を乗り越え、江戸歌舞伎の伝統を近代へと接続する重要な役割を担うこととなる。
河竹黙阿弥との提携と「白浪物」
菊五郎の役者としての経歴を語る上で欠かせないのが、幕末・明治を代表する狂言作者である河竹黙阿弥との提携である。菊五郎は黙阿弥の書き下ろした作品の多くで主演を務めた。特に盗賊を主人公とした世話物である白浪物(しらなみもの)を得意とし、『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなの錦絵)』(通称『白浪五人男』)の弁天小僧菊之助などは彼の最大の当たり役となった。七五調の流麗なセリフ回しと、悪党でありながらもどこか愛嬌と美しさを持つ「白浪」の姿は、江戸の頽廃的な美意識を見事に体現するものであった。また、音羽屋のお家芸である怪談物においても、優れた身体能力と早替わりの技術を駆使し、観客を大いに魅了した。
文明開化の世相を描く「散切物」
明治維新後、西洋文化の流入によって人々の生活様式が変化すると、歌舞伎界も新時代の風俗を取り入れる必要に迫られた。この要求に応える形で黙阿弥が執筆し、菊五郎が演じたのが散切物(ざんぎりもの)と呼ばれる新たな世話物である。「散切頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と謳われたように、ちょんまげを切り落とした散切頭の人物を主人公とし、洋傘や人力車、新聞といった当時の最新の風俗を舞台上に持ち込んだ。菊五郎は持ち前の写実的な演技力で、激動の時代を生きる庶民の姿を活写した。これらは単なる珍しさの追求ではなく、根底には江戸歌舞伎の世話物の系譜がしっかりと息づいており、急激な近代化に対する大衆の戸惑いや悲哀をすくい取っていた点が重要である。
「団菊左」時代と明治歌舞伎における歴史的意義
明治20年代以降、五代目尾上菊五郎は、九代目市川団十郎、初代市川左団次とともに明治歌舞伎の黄金時代を築き、この三名は大看板として「団菊左」(だんぎくさ)と並び称された。当時、政府の高官や知識人を中心に歌舞伎を高尚な芸術に引き上げようとする演劇改良運動が起きており、団十郎はこれに同調して歴史的事実を重んじた「活歴物(かつれきもの)」を推進した。しかし、大衆の圧倒的な支持を集めたのは、江戸の情緒や庶民の生活感情を色濃く残しながらも、洗練された写実性を追求した菊五郎の世話物であった。
団十郎が近代日本の「公」の精神や国家意識を演劇を通じて表現しようとしたのに対し、菊五郎は「私」の領域である市井の人々の生活や情念を守り抜いたといえる。彼の洗練された演技様式は、後の六代目尾上菊五郎へと受け継がれ、現代の歌舞伎における世話物の基礎として今なお大きな影響を与え続けている。