対馬(江戸時代以降)

江戸時代を通じて朝鮮との外交・貿易の窓口を担っていたが、明治新政府による外交権の一元化によって特権を奪われた島はどこか?
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重要度
★★

対馬(江戸時代以降) (つしま)

17世紀〜

【概説】
九州と朝鮮半島の間に位置し、江戸時代から近代にかけて日朝関係の窓口となった国境の島。江戸時代は対馬藩主の宗氏が独自の権限で朝鮮外交・貿易を独占したが、明治維新にともなう新政府の外交一元化政策によってその特権を接収され、近代日本の地方行政区画へと組み込まれた。

江戸幕府の「四つの口」と宗氏による日朝外交

江戸幕府はいわゆる「鎖国」体制下において、対外関係の窓口を4つの経路(四つの口)に限定した。長崎(オランダ・中国)、薩摩(琉球)、松前(アイヌ)と並び、朝鮮との交渉窓口を担ったのが対馬である。対馬を治めた対馬藩(宗氏)は、耕地に乏しい島の経済を維持するため、朝鮮との貿易に死活をかけていた。豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)によって国交が断絶したのち、宗氏は国書の偽造を行うなどして関係修復を急ぎ、1609年に朝鮮との間で己酉約条(慶長条約)を締結することに成功した。

これにより、対馬藩は朝鮮半島の釜山に設置された倭館での交易権を認められ、幕府から日朝外交の実務を委ねられた。江戸時代を通じて計12回派遣された朝鮮通信使の接伴や実務交渉、さらに幕府への東アジア情勢の情報提供を行うなど、対馬は単なる一藩の領国を超え、日本とアジアを結ぶ平和外交の要衝としての地位を確立していた。

明治新政府の外交一元化と対馬藩の特権喪失

1868年に明治新政府が樹立されると、対馬を取り巻く状況は劇変した。新政府は、割拠的な封建体制を打破して中央集権化を推進するとともに、欧米列強に対抗するために近代的な条約体制(万国公法)に基づく一元的な外交方針を打ち出した。これにより、対馬藩のような地方大名が独自に行ってきた間接外交は全面的に否定されることとなった。

1869年の版籍奉還、次いで1871年の廃藩置県によって対馬藩は廃止され、宗氏が世襲してきた日朝外交の特権や貿易利権は新政府(外務省)によって完全に接収された。この外交権移行期において、新政府名義で朝鮮に送られた国書に「皇」や「勅」といった冊封体制(中華を中心とする東アジアの秩序)を揺るがす文言が用いられていたため、朝鮮側が受け取りを拒否する書契問題が発生した。この問題は、のちの征韓論や、1875年の江華島事件を契機とする朝鮮開国(日朝修好条規)へと繋がっていくこととなる。

近代国防の拠点への変貌

外交上の特権を失った対馬は、明治期以降、日本帝国の安全保障上極めて重要な軍事拠点へとその性格を一変させた。対馬海峡はロシアをはじめとする列強の南下を防ぐ国防の最前線とみなされ、島内には多数の砲台が築かれて「対馬要塞」として重武装化が進んだ。幕末の1861年に発生したポサドニック号事件(ロシア軍艦による対馬占領計画)の記憶もあり、政府にとって対馬の直接支配と防衛力強化は急務であった。

1905年の日露戦争における日本海海戦(対馬沖海戦)はまさにこの海域で勃発し、対馬は国境の島から日本海を扼する「海軍の盾」としての役割を担わされることとなった。江戸時代の対隣国外交の平和的な窓口から、近代の軍事的要塞への転換は、日本が近代国家へ脱皮する過程を象徴する出来事であったと言える。

近世日朝関係と対馬藩

地理的要衝に位置した対馬藩の外交実態を解明し、近世日朝関係の構造を詳細に描き出した歴史的探究の書。

対馬藩江戸家老 (講談社学術文庫 1551)

藩政の要を担った江戸家老の職務や動向を通じ、幕藩体制下における対馬藩特有の政治的役割を浮き彫りにする一冊。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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