仁川 (じんせん)
【概説】
朝鮮半島の西海岸、黄海に面し、首都漢城(ソウル)の玄関口にあたる港湾都市。1876年の日朝修好条規に基づき、釜山・元山に続いて1883年に開港され、近代における日本の朝鮮進出および東アジア外交の主要な舞台となった地である。
日朝修好条規と仁川開港の経緯
1875年の江華島事件を契機として、翌1876年に日本と朝鮮の間で締結された不平等条約である日朝修好条規(江華島条約)により、朝鮮は釜山のほかに2つの港を開港することを義務づけられた。これに基づき、1880年の元山(げんざん)に続き、1883年に首都漢城に近い仁川(じんせん/旧称・済物浦:さいもつぽ)が開港された。仁川の開港は、日本にとって朝鮮の政治・経済の中心地へ直接アクセスするための極めて重要な足がかりとなった。
済物浦条約と高まる地政学的価値
仁川は、開港前後から日本と朝鮮の政治外交摩擦の最前線となった。1882年に漢城で起こった大院君派や保守系軍人による反乱(壬午軍乱)の際、暴徒に襲撃された日本公使・花房義質らは仁川へと脱出し、イギリス船に救助された。この事件の戦後処理として、同年に仁川において済物浦条約が締結され、日本は公使館警備を名目とする漢城駐兵権を獲得した。これ以降、仁川は日本兵の主要な上陸地および兵站拠点として機能していくこととなる。
近代東アジア戦争における軍事拠点化
日清・日露の両戦争において、仁川は地政学的な要衝として決定的な役割を果たした。1894年の日清戦争の勃発に際しては、大島義昌少将率いる日本軍の混成旅団が仁川に上陸し、漢城を速やかに制圧して清国軍との戦端を開いた。また、1904年の日露戦争の開幕直後には、仁川港外で日本海軍とロシア海軍が衝突する仁川沖海戦が発生した。このように、仁川は単なる通商港にとどまらず、近代日本による朝鮮半島の保護国化・植民地化の過程において、軍事・政治的な進出の基点であり続けた。