飛鳥

重要度
★★★

飛鳥 (あすか)

592年〜710年

【概説】
現在の奈良県高市郡明日香村周辺を指す歴史的地名。6世紀末の推古天皇から8世紀初頭の持統天皇・文武天皇の時代にかけて、古代日本の政治および文化の中心地として繁栄した。ヤマト王権が中央集権的な律令国家へと歩みを進める激動の舞台となった場所である。

地理的背景と蘇我氏の台頭

飛鳥は奈良盆地の南端に位置し、周囲を丘陵に囲まれた地形である。古代においては難波(大阪)から大和川や飛鳥川を遡る水運の終着点にあたり、朝鮮半島や中国大陸から渡来人がもたらす先進文物へのアクセスが良い交通の要衝であった。5世紀から6世紀にかけて、この地を本拠地として台頭したのが蘇我氏である。蘇我氏は渡来人と強い結びつきを持ち、彼らの持つ技術や知識を背景に、ヤマト王権内において強大な権力を掌握していった。

政治都市「飛鳥」の形成と歴代の宮

592年、蘇我馬子によって擁立された推古天皇が飛鳥の豊浦宮(とゆらのみや)で即位したことで、飛鳥は本格的に国政の中心地となった。古代のヤマト王権では天皇一代ごとに宮殿の場所を移す「歴代遷宮」の慣習があったが、飛鳥時代を通じて宮殿の多くはこの飛鳥の限られた範囲内に営まれるようになった。推古天皇の小墾田宮、舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮などがその代表であり、飛鳥は事実上の「恒常的な首都」としての性格を帯びていった。

乙巳の変と律令国家への胎動

権力の中枢であった飛鳥は、古代史を揺るがす政治的政変の舞台ともなった。645年、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足らが飛鳥板蓋宮において蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変(大化の改新の端緒)はその最たる例である。その後、天智天皇による近江大津宮への一時的な遷都があったものの、壬申の乱(672年)に勝利した天武天皇は再び飛鳥へと帰還し、飛鳥浄御原宮を造営した。この地において、天皇を中心とする強力な中央集権体制の構築が進められ、日本初の本格的な律令である飛鳥浄御原令の編纂など、律令国家に向けた国づくりが急ピッチで進展した。

仏教の受容と飛鳥文化の開花

政治の中心であると同時に、飛鳥は日本における仏教文化の発祥地にして一大拠点でもあった。6世紀末、蘇我馬子の発願によって日本初の本格的な伽藍配置を持つ飛鳥寺(法興寺)が建立された。これを皮切りに、飛鳥周辺には川原寺や薬師寺(本薬師寺)などの巨大な寺院が次々と建立された。朝鮮半島(特に百済や高句麗)や中国大陸の影響を色濃く受けた飛鳥文化、そして国家仏教へと発展していく白鳳文化がこの地で花開いた。仏教美術や建築様式のみならず、暦法や土木技術といった最新の科学的知識が飛鳥に集積し、国家としての文化的な基盤が形成されていったのである。

飛鳥の終焉と歴史的意義

飛鳥の繁栄は、持統天皇による694年の藤原京遷都によって大きな転換点を迎える。藤原京は飛鳥の北西に隣接するものの、中国の都城制に倣った日本初の本格的な条坊制(碁盤の目状の都市計画)を採用した巨大都市であり、これをもって手狭な飛鳥の地は首都としての役割を徐々に終えつつあった。さらに710年の平城京への遷都によって、政治・文化の中心は完全に北へと移り去った。しかし、ヤマト王権が未熟な連合政権から「日本」という国号と「天皇」という君主号を持つ法治国家へと脱皮を遂げた決定的な約1世紀の間、飛鳥が果たした役割は計り知れない。現代においても、飛鳥は古代日本の国家体制の原点として、極めて重要な歴史的意義を持ち続けている。

飛鳥宮跡出土木簡

出土木簡の読み解きから当時の暮らしや役人の実務を克明に浮き彫りにする、歴史の息吹が宿る一冊。

飛鳥 その古代史と風土

古代国家の形成期にあたる飛鳥の地を巡り、史跡や自然の佇まいからその輝かしい歴史を紐解く紀行の書。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 磐井の乱の鎮圧後、磐井の息子の葛子(くずこ)が死罪を免れる代償として、ヤマト政権に献上した直轄領(屯倉)はどこか?
Q. 律令制の七道の一つで、畿内から太平洋側を通って現在の関東・東国へと至る行政区分(道)は何か?
Q. 福岡県にあり、奥壁に赤や黒の顔料でゴンドラ形の船や馬などを引く人物が鮮やかに描かれていることで有名な装飾古墳はどこか?