帝国国策遂行要領
【概説】
1941年9月の御前会議において決定された、対米交渉の期限を画し、決裂した場合には直ちに対米英蘭開戦に踏み切ることを定めた国策の基本方針。日米交渉に具体的なデッドラインを設定したことで、日本が太平洋戦争へと突入する契機となった重大な決定である。
決定の背景と「南部仏印進駐」による日米摩擦の激化
1941年7月、日本軍は資源獲得と援蒋ルート遮断を目的に南部仏印進駐(フランス領インドシナ南部への進駐)を強行した。これに対し、アメリカは即座に在米日本資産の凍結や、日本への石油輸出の全面禁止という極めて厳しい経済制裁で対抗した。当時、石油の大部分をアメリカからの輸入に依存していた日本は、備蓄石油が枯渇する前に外交交渉で事態を打開するか、あるいは自活を求めて武力で南方資源地帯(オランダ領東インドなど)を確保するかの二者択一を迫られた。このような極限状態の中で、政府(第2次近衛文麿内閣)と陸海軍の統帥部は、今後の具体的な外交・軍事方針を一本化する必要に迫られた。
「外交」と「戦争準備」の主客逆転と御前会議の緊迫
1941年9月6日、天皇臨席のもとで開催された御前会議において、「帝国国策遂行要領」が決定された。この中では、主たる要求(日米交渉における日本の主張)が貫徹されない場合、「10月上旬を目途とし、速やかに開戦を決意す」と定められた。建前としては、外交による平和的解決を最優先(「外交を主とし、戦争準備を従とする」)とする近衛首相の意向が含まれていたが、実際には1ヶ月の期限付きで戦争準備を本格化させるものであり、実質的な開戦へのカウントダウンを意味していた。この会議において、昭和天皇が明治天皇の「よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」という和歌を朗詠し、平和的解決を強く望む異例の意思表示を行ったことは有名であるが、決定そのものを覆すには至らなかった。
近衛内閣の崩壊と東条英機内閣による開戦決定
要領の決定後、駐米大使の野村吉三郎らによる日米交渉が継続されたが、アメリカ側の態度は硬く、期限とされた10月上旬になっても合意の目処は立たなかった。これにより、国策遂行要領の規定通りに開戦を強硬に主張する東条英機陸相と、アメリカとの戦争を回避したい近衛首相との間で対立が激化し、第3次近衛内閣は総辞職した。後を襲った東条英機内閣は、昭和天皇の「白紙還元」の意志(要領に縛られず再検討せよとの命)を受けて国策を再検討した。しかし、外交交渉におけるアメリカ側の最終提案であるハル・ノートが提示されるに及び、日本側はこれを事実上の最後通牒と受け止め、最終的に11月5日の御前会議で再び「帝国国策遂行要領」が決定され、12月8日の真珠湾攻撃およびマレー作戦の開始へと突き進むこととなった。