奈良探訪6の続き。次は唐招提寺から10分ほど歩いて薬師寺へ。

薬師寺入口。汗だくで行ったら受付のお姉さんにねぎらわれた。奈良の人は人当たりが良いと聞いたことがあるけど、本当にそうなんだと嬉しくなった。

入場してすぐのところは冷房も効いてて助かった。ここで薬師寺のおさらいでもしておこう。
天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈願して発願し、藤原京に建立された寺院。平城京遷都に伴って現在地である西ノ京に移転され、南都七大寺の一つとして栄えた。白鳳文化の粋を集めた東塔や薬師三尊像など、飛鳥時代後期から奈良時代の卓越した仏教美術を現代に伝える重要な文化遺産である。

おぉー、立派ですなぁ!大講堂は平成15年の復興とのこと。裳階付きの独自様式。裳階も復習。
仏堂や仏塔の軒下に取り付けられた、一見すると屋根のように見える庇(ひさし)状の装飾的建築部材。本来の屋根の下にさらに一重、壁面を取り囲むように付け加えられたもので、建物の構造を風雨から保護するとともに、外観の美しさを整え、建物を大きく壮麗に見せる役割を持つ。

東塔。平成21年に全面解体修理が行われたそうな。白鳳様式の数少ない建物とのこと。白鳳文化のおさらいでもしておこう。
飛鳥時代後期にあたる7世紀後半から8世紀初頭にかけて花開いた日本の文化。天武天皇・持統天皇の時代に最盛期を迎え、唐の初期(初唐)文化の影響を受けた、若々しく大らかな気風を特徴とする。律令国家の形成期を背景に、国家仏教の展開や和歌の確立など、日本独自の国家と文化の基礎が築かれた重要な転換期である。

西塔。白鳳時代に薬師寺が初めて二つの塔を配置したそうで、薬師寺式伽藍配置というそう。
飛鳥時代後期(白鳳期)に確立された、金堂の手前に東塔と西塔の二基の塔を左右対称に並び立たせる伽藍配置様式。それまでの「一塔」を中心とした配置から脱却し、仏教儀礼の変化や対称性の美学を具現化した点に特徴がある。天武天皇の発願による薬師寺造営を契機に登場し、古代日本の国家仏教における象徴的な建築デザインとなった。

西塔のほうからの写真。

さて、ホテルのある大阪へ戻る。これが中之島とのこと。色々ありそうだったけど今回は外から見るのみ。中之島の復習。
大坂を流れる淀川(堂島川と土佐堀川)に挟まれた東西に細長い中州。江戸時代に諸藩の蔵屋敷が数多く置かれ、全国から集まる米や特産物の流通・取引の拠点として「天下の台所」大坂の中枢を担った地域である。

北浜駅から友人との待ち合わせ場所に歩いて向かっていたら近くにこんなのが。ここで俵物の売買が行われていたのかー。
いりこ(ナマコ)、干しあわび、ふかひれ(鱶鰭)の三品目を中心とする輸出用水産加工品の総称。江戸時代中期以降の長崎貿易において、枯渇しつつあった金銀銅に代わり、清に対する重要な輸出品として幕府の経済・貿易政策を支えた。

蘭医・緒方洪庵が天保9年(1838年)に大坂に設立した蘭学塾。正式名称は適々斎塾。徹底した実力主義に基づく教育が行われ、福沢諭吉をはじめとする、幕末から明治維新期の日本の近代化を牽引する数多くの優秀な人材を輩出した。

緒方洪庵先生。偉大だなあ。キーボードで打ってて気づいたことでどうでもいいのだが、緒方洪庵と尾形光琳って読み方は一文字違いなのだなぁ。
江戸時代後期から幕末にかけて活躍した蘭方医・蘭学者。大坂に蘭学塾「適塾」を開設し、福沢諭吉や大村益次郎など、幕末から明治維新期にかけて活躍する多くの有為な人材を育成した。また、種痘の普及やコレラ治療など、日本の近代医学の発展にも多大な貢献を残した。

友人と合流したが、目当てのお好み焼きの店が予約でいっぱいだったので彷徨っていると銅座の跡があった。
江戸幕府が銅の精錬および輸出・国内流通を独占・管理するために設置した専売機関。田沼意次政権期の1766年(明和3年)に大坂に設置され、長崎貿易における金銀流出の防止と輸出用銅の安定確保を目的とした。

お好み焼き食べたかったけど、意外とないのだな……。近くに焼き鳥屋さん(ちょっと上品そうな)があってそちらへ。美味しかった。このあと二軒目に行ったが、よく覚えていない。とりあえずこの日は終了。