緒方洪庵 (おがたこうあん)
【概説】
江戸時代後期から幕末にかけて活躍した蘭方医・蘭学者。大坂に蘭学塾「適塾」を開設し、福沢諭吉や大村益次郎など、幕末から明治維新期にかけて活躍する多くの有為な人材を育成した。また、種痘の普及やコレラ治療など、日本の近代医学の発展にも多大な貢献を残した。
蘭学・医学への志と修業時代
緒方洪庵は1810(文化7)年、備中国足守藩(現在の岡山県岡山市)の下級武士の三男として生まれた。幼少期から病弱であったことや、元服後に大坂の堂島に出向いた経験などから、武士としてではなく医師として身を立てることを決意した。1826(文政9)年、大坂の蘭学塾である中天游(なかてんゆう)の思々斎塾に入門し、蘭学と医学の基礎を学んだ。
その後、さらに深い見識を求めて江戸へ下り、当時最高峰の蘭学者であった坪井信道や宇田川榛斎(うだがわしんさい)に師事した。江戸での厳しい勉学を経て、さらに長崎へ遊学してオランダ商館医のニーマンなどから直接最新の西洋医学を吸収し、蘭方医としての確固たる実力を身につけた。
適塾の創設と自由な学風
1838(天保9)年、長崎から大坂に戻った洪庵は、瓦町に蘭学塾「適塾(適々斎塾)」を開設した。適塾はその後、過書町(現在の大阪市中央区北浜)に移転し、全国から蘭学を志す若者たちが集まる一大拠点となった。
適塾の最大の特徴は、身分や階級に全くとらわれない徹底した実力主義と、学生たちの自主性を重んじる自由な学風にあった。塾生たちは、オランダ語の語彙を記した貴重な写本辞書「ヅーフ辞書(ドゥーフ・ハルマ)」を奪い合うようにして昼夜を問わずオランダ語の原書を解読し、医学のみならず、物理学、化学、兵学など幅広い西洋の学問を吸収した。洪庵自身は非常に温厚な性格であり、塾生たちを厳しく指導するというよりは、彼らの探求心を優しく見守り、支援する理想的な教育者であった。
幕末維新を彩る門下生たち
適塾が日本の歴史において極めて重要視される理由は、そこから輩出された人材の豊かさにある。約25年間の存続期間に、およそ1000名とも3000名ともいわれる門下生が学んだ。その中には、後に慶應義塾を創設し『学問のすゝめ』を著した福沢諭吉、長州藩の軍制改革を主導し近代日本陸軍の事実上の創設者となった大村益次郎、越前藩出身で幕末の政局で活躍した橋本左内などがいる。
さらに、近代日本の医療・衛生行政の基礎を築いた長与専斎(ながよせんさい)や、日本赤十字社を創設した佐野常民(さのつねたみ)、旧幕府軍の将として戊辰戦争を戦った大鳥圭介など、彼らの活躍の場は医学にとどまらず、政治、軍事、教育、外交と多岐にわたった。洪庵の適塾は、まさに近代日本を牽引する人材のインキュベーター(孵化器)としての役割を果たしたのである。
医学者としての功績:種痘の普及とコレラ対策
洪庵は教育者としてだけでなく、臨床医・医学者としても傑出した業績を残している。当時、不治の病として恐れられていた天然痘を予防するため、牛痘苗を用いた種痘(しゅとう)の普及に尽力した。1849(嘉永2)年、大坂に除痘館(じょとうかん)を設立し、民間への種痘の実施を推し進めた。当初は牛に関する迷信から人々の反発も強かったが、洪庵の粘り強い啓蒙活動により、次第に関西一円に種痘が定着していった。
また、1858(安政5)年に日本全国でコレラが猛威を振るった際、洪庵は急遽オランダ語の医学書を翻訳・抜粋し、『虎狼痢治準(ころりちじゅん)』という治療の手引書を刊行した。未知の伝染病に対する最善の対処法を全国の医師たちに迅速に広めることで、多くの人命を救うことに貢献した。
幕府奥医師への就任と最期
洪庵の名声は幕府にも届き、1862(文久2)年、幕府は彼を江戸へ召喚し、将軍の侍医である奥医師ならびに西洋医学所頭取に任命した。洪庵は元来、権力や名誉に固執しない在野の精神の持ち主であり、この要請を再三辞退したが、度重なる幕命を断りきれず、適塾を養子や高弟に託して江戸へ赴いた。
江戸では幕府の医療体制の近代化に意欲的に取り組もうとしたものの、就任からわずか1年足らずの1863(文久3)年、江戸の役宅にて喀血し、54歳で急逝した。その突然の死は多くの門下生や関係者に惜しまれたが、彼が適塾で蒔いた「洋学の種」は、門下生たちの手によって明治維新という歴史的転換のなかで大きく花開くこととなった。