第1次安倍晋三内閣
【概説】
2006年(平成18年)9月に発足した、戦後最年少かつ初の戦後生まれの首相である安倍晋三が率いた内閣。「戦後レジームからの脱却」を政権の最重要課題に掲げ、教育基本法の全面改正や防衛庁の「省」への昇格、国民投票法の成立など、国家の基本構造に関わる保守的な政策を次々と実現した。しかし、年金記録問題や閣僚の不祥事によって国民の支持を失い、参議院選挙の大敗と首相自身の健康問題により、わずか約1年で総辞職に追い込まれた。
初の戦後生まれの首相と「戦後レジームからの脱却」
5年半に及ぶ長期政権を築き、郵政民営化をはじめとする新自由主義的な構造改革を推進した小泉純一郎の後継として、2006年9月に第1次安倍内閣が発足した。安倍晋三は当時52歳であり、日本の憲政史上において戦後最年少、そして初の戦後生まれの首相であった。
安倍は「美しい国へ」というスローガンを掲げ、小泉政権の経済路線を継承しつつも、より国家観やイデオロギーを重視する政治路線を展開した。その核心にあったのが、第二次世界大戦後の連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で形成された憲法や教育などの諸制度、いわゆる「戦後レジーム(体制)」からの脱却である。自民党結党以来の悲願である自主憲法の制定を視野に入れ、国家の骨格を根本から作り変えることを目指した。
教育基本法の改正と防衛省昇格
政権発足直後の2006年末、安倍内閣は戦後教育の根本原則を定めてきた教育基本法を初めて全面改正した。旧法が個人の尊厳を強調していたのに対し、新法では「我が国と郷土を愛する態度(愛国心)」や「公共の精神」を養うことを教育の目標として明記し、国家や社会に対する国民の意識改革を図った。
続いて2007年(平成19年)1月には、安全保障体制の強化に向けた重要法案を成立させ、長年の懸案であった防衛庁の「省」への昇格を実現した。これにより防衛省は他の省と同格になり、独自に予算を要求したり法案を提出したりする権限を強化された。また、これまで自衛隊の付随的な任務とされていた国連平和維持活動(PKO)などの「国際平和協力活動」が、防衛や治安維持と並ぶ本来任務に格上げされた。
国民投票法の成立と積極的な外交政策
さらに2007年5月には、日本国憲法第96条が定める憲法改正の具体的な手続きを規定した国民投票法(憲法改正国民投票法)を成立させた。これにより、戦後長らく手付かずであった憲法改正に向けた法的な環境が初めて整備された。
外交面においては、小泉政権下で首相の靖国神社参拝問題により極度に冷え込んでいた日中関係の改善に動き、就任直後に中国および韓国を電撃訪問して、中国との間に「戦略的互恵関係」を構築することで合意した。一方で、「価値観外交」や「自由と繁栄の弧」という構想を提唱し、民主主義や法の支配といった普遍的価値を共有する諸国(アメリカ、オーストラリア、インドなど)との連携を深め、台頭する中国を牽制する戦略的な外交も展開した。
「消えた年金」問題と「ねじれ国会」の出現
国家の基本構想に関わる分野で次々と法案を成立させた一方で、国民生活に直結する内政面や政権運営では深刻な躓きを見せた。思想や信条の近い政治家を重用した人事は「お友達内閣」と批判され、閣僚の失言や政治資金を巡る不祥事が相次ぎ、農林水産大臣が自殺に追い込まれるなど政権の求心力は急激に低下した。
最大の致命傷となったのは、2007年春に発覚した社会保険庁による約5,000万件もの年金記録のずさんな管理、いわゆる「消えた年金」問題である。国民の老後の安心を揺るがすこの問題は猛烈な批判を浴び、同年7月の第21回参議院議員通常選挙で自民党は歴史的な大敗を喫した。この結果、野党の民主党が参議院の第一党となり、衆議院と参議院で多数派が異なる「ねじれ国会」が出現し、法案の成立が極めて困難な状況に陥った。
突然の退陣と後の長期政権への布石
参院選大敗後も安倍首相は続投を表明し、内閣改造を行って事態の収拾を図った。しかし、テロ対策特別措置法の延長を巡って野党との対立が深まる中、自身の持病である潰瘍性大腸炎が悪化し、同年9月の臨時国会での所信表明演説の直後に突如として辞任を表明した。華々しくスタートした若き宰相の挑戦は、深刻な政治的混乱を残したまま、わずか366日で幕を閉じた。
第1次安倍内閣は、結果として短命政権に終わったものの、教育基本法改正や防衛省昇格、国民投票法の制定など、その後の日本国家のあり方を規定する重大な制度変更を成し遂げた。この1年間の経験と挫折は、5年の歳月を経て2012年に発足し、憲政史上最長の政権となる第2次安倍内閣における、より強かで現実主義的な政権運営の強固な基盤となったという点で、現代日本政治史において極めて重要な意味を持っている。