連合国
【概説】
第二次世界大戦において、アメリカ・イギリス・ソビエト連邦・中華民国などを中心として、日本・ドイツ・イタリアなどの枢軸国と戦った国家群。1942年の「連合国共同宣言」によって正式に結成され、勝利後の日本に対する占領統治の主体となり、戦後の国際連合の母体ともなった陣営である。
反ファシズム陣営の形成と連合国の成立
1939年9月のドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発すると、英仏を中心とする陣営が形成されたが、緒戦は枢軸国側の優勢で推移した。しかし、1941年に独ソ戦が始まるとソビエト連邦が合流し、さらに同年12月の日本の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦すると、アメリカ合衆国も本格的に参戦した。これにより、世界規模での二大陣営の対立構造が決定づけられた。
1942年1月1日、アメリカのワシントンD.C.において、米・英・ソ・中をはじめとする26カ国が連合国共同宣言に署名した。この宣言は、前年に米英首脳が発表した大西洋憲章の原則(領土不拡大、民族自決など)を支持し、枢軸国を打倒するために全力を注ぐこと、および単独講和を禁じることを規定した。これによって「連合国(United Nations)」という反ファシズム・反軍国主義の国際的な枠組みが正式に成立した。
日本を追いつめた巨大な包囲網
日本史の文脈において、連合国は日中戦争から太平洋戦争(大東亜戦争)にかけて、日本と激しく敵対した巨大な包囲網として機能した。開戦前の日本は、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)による経済封鎖網、いわゆるABCD包囲陣に苦しめられていたが、これはまさに連合国の前身とも言える対日協調体制であった。
日中戦争を戦っていた蔣介石率いる中華民国(国民政府)は、連合国の一員として米英からビルマを通じた莫大な物資援助(援蔣ルート)を受け、アジア太平洋戦線における対日戦の主軸の一つとなった。日本は東南アジアの資源地帯を占領し「大東亜共栄圏」の建設を掲げたが、アメリカの圧倒的な工業力と連合国間の強固な軍事的・経済的連携の前に、次第に防戦一方へと追い込まれていった。
連合国首脳会談による対日戦後処理の構想
連合国は戦争遂行と並行して、度重なる首脳会談を開き、戦後の国際秩序と敗戦国の処理に関する構想を練り上げていった。1943年11月のカイロ会談では、アメリカ(ルーズベルト)、イギリス(チャーチル)、中国(蔣介石)の首脳が集まり、日本の無条件降伏の追求や、満州・台湾などの中国への返還、朝鮮の独立などを定めたカイロ宣言を発表した。
さらに1945年2月のヤルタ会談では、米・英・ソの首脳が戦後処理を協議するとともに、ソ連の対日参戦が密約された。同年7月にはドイツのポツダムで会談が行われ、米・英・中の名でポツダム宣言が発せられた。この宣言は日本の軍国主義の除去、民主主義の復活、領土の限定などを規定し、日本に全軍隊の無条件降伏を要求する最終勧告であった。同年8月、日本政府はこの宣言を受諾し、敗戦を迎えることとなった。
日本占領と「国際連合」への発展
1945年9月2日に日本の降伏文書調印が行われると、日本は連合国の占領下に置かれた。占領統治の最高機関として極東委員会がワシントンに設置されたが、日本国内における実際の権力はアメリカ軍を中心とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が握り、非軍事化と民主化を柱とする戦後改革が推進された。
同時に、戦争を勝ち抜いた「連合国(United Nations)」の枠組みは、そのまま戦後の国際平和維持機構である国際連合へと発展した。英語表記では第二次大戦時の連合国も現在の国際連合も同じ「United Nations」である。日本は1951年のサンフランシスコ平和条約によって多数の連合国と講和し、主権を回復したが、戦勝国である連合国内部で生じたアメリカ(資本主義陣営)とソ連(社会主義陣営)の深刻な対立、すなわち冷戦は、その後の日本の安全保障や外交体制に決定的な影響を与え続けることとなった。