池田勇人 (いけだはやと)
【概説】
昭和時代中期の官僚・政治家であり、第58〜60代内閣総理大臣。1960年の安保闘争による政治的混乱の後に登板し、「寛容と忍耐」を掲げてイデオロギー対立を収拾した。「国民所得倍増計画」を打ち出して日本の高度経済成長を力強く牽引し、戦後日本の国家目標を「政治から経済へ」と大きく転換させた、経済大国日本の最大の立役者である。
大蔵官僚から「吉田学校」の優等生へ
池田勇人は京都帝国大学を卒業後、大蔵省に入省し、主に税務畑を歩んだ大蔵官僚であった。戦後の1949年(昭和24年)、第2次吉田茂内閣のもとで衆議院議員に初当選すると、吉田茂からその経済・財政手腕を高く評価され、当選1回にして異例の大蔵大臣に抜擢された。
池田は「吉田学校」の代表格として、ドッジ・ラインによる超均衡予算の編成やインフレ収束、さらにはサンフランシスコ平和条約締結に向けたアメリカとの事前交渉など、戦後復興期の経済政策と外交の実務を最前線で担った。その後も石橋湛山内閣や岸信介内閣などで重要閣僚(蔵相や通産相)を歴任し、保守本流の政策通としての地位を確固たるものにしていった。
安保闘争後の登板と「寛容と忍耐」
1960年(昭和35年)、前任の岸信介首相が日米安全保障条約の改定を強行したことにより、日本中を巻き込む空前の大衆運動である安保闘争が勃発した。国民が政治的に激しく二極化し、社会に亀裂が走る中、岸の退陣を受けて内閣総理大臣に就任したのが池田であった。
池田は、前政権の強権的な政治手法が国民の反発を招いたことを深く反省し、「寛容と忍耐」というスローガンを掲げた。野党との対決姿勢を和らげ、憲法改正などのイデオロギー的な争点を意図的に棚上げすることで、国民の目を政治闘争から「経済的な豊かさ」の追求へと巧みに振り向けたのである。この鮮やかな争点転換こそが、池田政治の最大の真骨頂であった。
「国民所得倍増計画」と大衆消費社会の到来
池田内閣を象徴する最大の政策が、1960年末に閣議決定された「国民所得倍増計画」である。これは、10年間で日本のGNP(国民総生産)を2倍にし、国民の生活水準を飛躍的に向上させるという極めて野心的な経済計画であった。
政府は減税や社会保障の拡充を行いながら、道路や港湾などの産業基盤を整備する全国総合開発計画を推進し、民間企業の設備投資を強く後押しした。結果として、日本の経済は政府の目標をはるかに上回る年平均10%以上の驚異的な成長を遂げ、わずか7年弱で所得倍増を達成してしまった。
この高度経済成長の過程で、国民の所得は激増し、農村から都市部への大規模な人口移動が起こった。家庭にはテレビ、洗濯機、冷蔵庫といった家電製品が急速に普及し、日本社会は本格的な大衆消費社会へと変貌を遂げたのである。
開放経済体制への移行と「先進国クラブ」入り
内政で経済成長を牽引する一方、池田は外交面においても「経済外交」を強力に推し進めた。日本経済の国際競争力が高まったことを背景に、それまでの保護貿易体制から開放経済体制への移行を図ったのである。
池田内閣のもとで、日本はIMF(国際通貨基金)の8条国(国際収支の悪化を理由に為替制限ができない国)への移行や、GATT(関税および貿易に関する一般協定)の11条国への移行を果たした。さらに1964年(昭和39年)には、先進国の証とも言えるOECD(経済協力開発機構)への加盟を実現し、日本を国際社会における確固たる「先進国」の地位へと復帰させた。
歴史的意義:戦後日本の進路の決定
1964年秋、池田はアジア初となる東京オリンピックを成功裏に開催し、日本の復興と発展を世界にアピールした。しかし、その閉会式の翌日、喉頭がんの悪化を理由に退陣を表明し、翌1965年にこの世を去った。
池田勇人が首相として在任した期間は、日本が敗戦国から世界第2位(1968年に西ドイツを抜く)の経済大国へと駆け上がる、まさに助走から飛躍の時期であった。彼が敷いた「政治的な争いを避け、ひたすら経済成長と国民生活の向上を目指す」という路線は、その後の戦後日本の国家としての基本骨格となり、日本社会のあり方を決定づけた極めて重要な歴史的転換点として評価されている。