樺太・千島交換条約

高校日本史的重要度
★★★

「樺」の書き方

樺太・千島交換条約 (からふと・ちしまこうかんじょうやく)

1875年

【概説】
1875年(明治8年)に日本とロシア帝国の間で締結され、長年の懸案であった北方の国境を画定した条約。特命全権公使の榎本武揚がロシア側と交渉し、樺太(サハリン)全域をロシア領、千島列島全域を日本領と定めた。これにより両国間の領土問題が平和的に解決され、明治政府は北海道開拓と近代化政策に専念できるようになった。

日露和親条約以降の国境未画定問題

江戸時代末期の1855年に締結された日露和親条約において、日本とロシアの国境は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間に引かれ、南千島は日本領、北千島はロシア領と定められた。しかし、樺太(サハリン)については国境を設けず、これまで通り両国人の混住の地(「是迄仕来の通」)とされた。このため、幕末から明治初期にかけて、樺太では日本の漁民や開拓民と、南下政策を推し進めるロシアの軍人・囚人との間で度重なる紛争や摩擦が発生していた。

明治政府が成立すると、開拓使の次官(のち長官)であった黒田清隆は、広大で寒冷な樺太の防衛や開拓には多大な費用と兵力が必要であり、紛争がエスカレートして強国ロシアとの全面戦争に発展することを危惧した。そこで黒田は、樺太の権益を放棄する代わりに、防衛しやすく資源の豊かな北海道の開拓と経営に国力を集中すべきであるという「樺太放棄論」を政府に建白した。政府内には強硬論もあったが、最終的に黒田の現実的な主張が採用されることとなった。

榎本武揚による交渉と条約の締結

明治政府は、樺太問題を抜本的に解決するため、旧幕臣でありながら国際法やロシア情勢に明るい榎本武揚を特命全権公使としてロシアの首都サンクトペテルブルクに派遣した。榎本はロシア外相ゴルチャコフと粘り強い交渉を行い、1875年(明治8年)5月7日に樺太・千島交換条約(サンクトペテルブルク条約)の調印に至った。

この条約により、日本は樺太における一切の権原をロシアに譲渡し、樺太全島を完全なロシア領とした。その代償として、ロシアは得撫島から占守島(しゅむしゅとう)に至る北千島18島を日本に譲渡した。これにより、日本の領土は千島列島全域に拡張され、カムチャツカ半島の南端と占守島の間の千島海峡が新たな日露の国境線として画定されたのである。

条約の歴史的意義と先住民への影響

樺太・千島交換条約の最大の意義は、建国間もない明治日本が、大国ロシアとの間の深刻な国境紛争を武力衝突に発展させることなく、外交交渉によって平和裏かつ対等に解決した点にある。北方の安全保障上の脅威を一時的に解消した日本は、構想通り北海道の開拓と近代国家建設に資金と人材を集中させることが可能となった。

一方で、この条約による国境線の画定は、当該地域に暮らす先住民族であるアイヌの人々の生活基盤を大きく揺るがすこととなった。国籍の選択を迫られた樺太アイヌの多くは北海道へ強制的に移住させられ、また北千島に住む千島アイヌも後に色丹島へと移住させられるなど、近代国民国家の論理による領土確定は、先住民の伝統的な生活や文化を破壊する側面も持ち合わせていた。

その後の国境線の変動と現代の北方領土問題

その後、日露関係の悪化に伴い北方の国境線は再び変動することになる。1905年の日露戦争後のポーツマス条約で、日本は北緯50度以南の南樺太を獲得した。しかし、1945年の第二次世界大戦末期にソ連が対日参戦した結果、南樺太および千島列島全域はソ連(現在のロシア)に不法占拠されるに至った。

現代の日露間における北方領土問題において、日本政府が返還を求めている択捉島以南の「北方四島」(択捉島国後島色丹島歯舞群島)は、そもそも日露和親条約の時点から日本の固有の領土であり、樺太・千島交換条約でロシアから譲り受けた「千島列島」には含まれていない。この条約は、日本の領土的主張の歴史的・国際法的な正当性を示す上で、今日においても極めて重要な根拠史料となっている。

最終更新:
2026年8月12日 @ 16:40

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