ドイツ民主共和国(東ドイツ)

高校日本史的重要度
★★

ドイツ民主共和国(東ドイツ) (どいつみんしゅきょうわこく)

1949年〜1990年

【概説】
第二次世界大戦後の1949年、連合国による分割占領のうちソ連の占領地域に成立した社会主義国家。東西冷戦における東側陣営の最前線であり、日本の昭和時代における国際情勢や戦後外交に大きな影を落とした分断国家を代表する存在。

冷戦の最前線と「分断国家」の誕生

第二次世界大戦において敗北したドイツは、アメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦ソ連)の4カ国によって分割占領された。冷戦の激化にともない、1949年5月に西側占領地域でドイツ連邦共和国西ドイツ)が成立すると、これに対抗して同年10月、ソ連占領地域にドイツ民主共和国(東ドイツが建国された。これにより、ドイツの東西分断が決定づけられた。

ドイツは社会主義統一党(SED)による一党独裁体制を敷き、ソ連型社会主義に基づく計画経済を導入した。ソ連領内に孤立していたベルリン市も東西に分断され、東ドイツ政府が東ベルリンを首都とした。1961年には、東側から西側への人口流出を防ぐためにベルリンの壁が建設され、東西冷戦の物理的な象徴となった。

昭和の日本外交と「二つのドイツ」

日本の昭和期における戦後外交は、アメリカを中心とする西側陣営への参画から始まった。そのため、日本政府は西ドイツを「ドイツにおける唯一の合法政府」とみなす立場を支持し、東ドイツとの国交を結ばない方針をとった。昭和期の日本の知識人や左翼運動において、東ドイツは社会主義モデルの一国として注視されたが、国家としての公的な関係は閉ざされたままであった。

この状況が変化したのは1970年代である。西ドイツ首相ヴィリー・ブラントが推進した「東方外交」により東西ドイツの緊張緩和(デタント)が進み、1972年に東西ドイツ基本条約が締結された。これを受け、日本政府も翌1973(昭和48)年に東ドイツを国家承認し、国交を樹立した。1981(昭和56)年には東ドイツの最高指導者エーリッヒ・ホーネッカーが国賓として訪日し、昭和天皇との会見や経済交流が行われるなど、冷戦後期の変容を象徴する動きも見られた。

東欧革命と「昭和」の終焉

1980年代後半、ソ連ゴルバチョフ政権による「ペレストロイカ(再建)」を機に、東欧諸国で民主化運動が台頭した。東ドイツでも市民による大規模なデモが頻発し、1989(平成元)年11月9日、ベルリンの壁が崩壊した。翌1990(平成2)年10月3日、東ドイツの各州が西ドイツに編入される形で「ドイツ再統一」が果たされ、東ドイツは消滅した。

この東ドイツの消滅と冷戦の終結は、日本の政治構造にも甚大な影響を与えた。冷戦を前提として長く続いていた「保革対立(55年体制)」はその存在意義を失い、1990年代初頭の日本政界の再編(自民党一党優位体制の崩壊と55年体制の終焉)へとつながることとなった。

最終更新:
2026年6月16日 @ 07:45

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