分割占領
【概説】
第二次世界大戦における日本の敗戦に伴い、日本領であった朝鮮半島を北緯38度線を境界として、アメリカとソビエト連邦の両軍が分割して統治した出来事。日本軍の武装解除を目的とした暫定的な措置であったが、米ソ冷戦の激化によって固定化し、その後の南北分断国家の樹立と朝鮮戦争の勃発へとつながる歴史的転換点となった。
分割占領の背景と北緯38度線の設定
1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾して降伏したことに伴い、それまで日本の植民地支配下(日本統治時代)にあった朝鮮半島の戦後処理が急務となった。連合国はすでに1943年のカイロ宣言において、朝鮮をしかるべき手続きを経て独立させる方針を示していたが、具体的な統治計画は未定のままであった。日本の降伏間際にソ連が対日参戦し、朝鮮半島を急速に南下し始めたため、危機感を抱いたアメリカは、自国軍が半島に展開する時間的猶予を得るために、急遽北緯38度線を軍事境界線として提案した。ソ連がこの提案に同意したことで、38度線以北をソ連軍、以南をアメリカ軍が占領・統治する分割占領体制が成立した。
米ソによる異なる軍政の展開と対立
北緯38度線を境にした分割占領は、単なる軍事的な管轄区分の枠を超え、それぞれの占領地域に全く異なる政治・社会体制をもたらすこととなった。ソ連が軍政を敷いた北部では、抗日パルチザン闘争の経歴を持つ金日成を中心とする社会主義勢力が育成され、地主の土地を没収する農地改革など急進的な社会主義化が進められた。一方、米軍政下におかれた南部では、過激な左翼運動を抑え込むため、アメリカ帰りの李承晩ら右派の反共主義勢力が支援された。これにより、朝鮮半島の内部において左右両派の対立が激化し、民族自らによる統一政府の樹立は極めて困難な状況に陥った。
分断の固定化から朝鮮戦争へ
1945年12月のモスクワ三国外相会議において、最高5年間の「信託統治案」が合意されたが、朝鮮現地では激しい反対運動(反託運動)が巻き起こり、米ソの共同委員会も対立を繰り返して決裂した。解決の糸口を失ったアメリカは、朝鮮問題を国際連合に上程し、国連監視下での南北総選挙による統一政府樹立を目指した。しかし、ソ連は国連委員団の北側への立ち入りを拒否したため、1948年5月に南側のみでの単独選挙が強行され、同年8月に大韓民国(韓国)が成立した。これに対抗して、同年9月には北側でも朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国され、暫定的な分割占領は「南北分断」という決定的な事態へと固定化された。この時生まれた深い亀裂は、米ソ冷戦の最前線として、1950年の朝鮮戦争へと直結していくこととなった。