正丁・老丁(次丁)・中男(少丁) (せいてい・ろうてい(じてい)・ちゅうなん(しょうてい))
【概説】
律令制において、租・庸・調などの課役を賦課する基準として定められた男性の年齢区分。21〜60歳を正丁、61〜65歳を老丁(次丁)、17〜20歳を中男(少丁)とし、それぞれの区分で税や労役の負担量が異なっていた。国家が人民の労働能力を個別に把握し、直接的な支配と収奪を行うための根幹となる制度である。
律令国家の個別人身支配と年齢区分の導入
7世紀後半から8世紀にかけて形成された古代律令国家は、唐の制度に倣い、全国の人民を戸籍や計帳に登録して直接支配する個別人身支配の体制を構築した。国家の財政基盤や公共事業を支える租・庸・調や雑徭(ぞうよう)、軍防(兵役)といった重い負担は、主に成人男性に対して課された。そのため、個人の労働能力を正確に把握して課役の基準を明確にする必要があり、年齢による厳密な区分が設けられたのである。
701年(大宝元年)に制定された大宝律令では、男性を年齢ごとに「黄男(3歳以下)」「小男(4〜16歳)」「中男(17〜20歳)」「正丁(21〜60歳)」「老丁(61〜65歳)」「老男(66歳以上)」の6段階に区分した。このうち、実質的な労働力として課役の対象となったのが正丁・老丁・中男の3区分である。なお、718年に編纂され757年に施行された養老律令では、唐の制度により近づける形で、老丁を次丁、中男を少丁と改称している。
各区分の役割と課役負担の差異
年齢区分によって、国家に対する義務の重さは明確に異なっていた。最も負担が重かったのが21歳から60歳までの正丁である。正丁は働き盛りとみなされ、租・庸・調・雑徭・兵役といったすべての課役を全額負担する義務を負い、国家の労働力および税収の最大の担い手と位置づけられた。
これに対し、61歳から65歳までの老丁(次丁)は、体力の衰えを考慮して負担が軽減され、調や庸などの負担量は正丁の2分の1とされた。また、17歳から20歳までの中男(少丁)も未成年として扱われ、庸が免除されたほか、調の負担も正丁の4分の1に減免された。加えて、中男や老丁は原則として兵役の対象外であった。このように、年齢に応じた労働能力の差を税率に反映させることで、合理的かつ徹底した収奪システムの構築が意図されていたのである。
過酷な負担と偽籍による制度の形骸化
しかし、正丁に対する課役負担は極めて過酷であり、人民の生活を激しく圧迫した。特に、都での労働を強いる庸や地方での無償労働である雑徭、さらには防人などへの徴用は、農民にとって死活問題であった。そのため、過酷な税負担から逃れるための様々な抵抗手段がとられるようになった。
その代表的なものが、戸籍の年齢や性別を意図的に偽る偽籍(ぎせき)である。戸籍や計帳を作成する際、正丁の男性を女性(課役免除対象)として申告したり、年齢を過少・過大に申告して中男や老丁、あるいは課役が完全に免除される小男や老男として登録する事例が全国で頻発した。発掘された平安時代初期の戸籍には、一戸の構成員のほとんどが女性で占められている不自然な記録も残っている。こうした人民の必死の抵抗により、年齢区分に基づく個別人身支配は次第に機能しなくなり、平安時代中期以降、国家は土地(名)を基準に課税する負名体制へと方針を大転換していくこととなる。