防人

重要度
★★

防人 (さきもり)

7世紀後半~10世紀頃

【概説】
白村江の戦いでの敗戦を契機に、唐や新羅の来襲に備えて九州北部沿岸の警備にあたった兵士。大宝律令などの軍防令によって法制化され、主に武勇に優れた東国の農民から徴発された。任期中の旅費や武器が自己負担となるなど極めて過酷な軍役であり、彼らが残した「防人歌」は当時の民衆の哀歌として現代に伝えられている。

白村江の敗戦と国防体制の構築

防人制度の起源は、663年に朝鮮半島で行われた白村江の戦いに遡る。百済の復興を支援した倭(日本)の軍勢は、唐・新羅の連合軍に大敗を喫した。これにより、対外的な緊張が一気に高まり、唐・新羅による日本本土への侵攻が現実的な脅威となった。

危機感を抱いた中大兄皇子(のちの天智天皇)は、対馬・壱岐や筑紫(九州北部)に国防の拠点として水城や朝鮮式山城を築き、そこに「防人」や情報を伝達する「烽(とぶひ)」を配備した。その後、大宝律令などの律令体制が整備されると、防人は軍防令に基づく正式な軍事制度として法制化され、大宰府の指揮下で対外防備の任務に就くこととなった。

東国からの徴発と過酷な負担の実態

当初、防人は全国の兵士から徴発されていたが、730年(天平2年)以降は、主に東国(関東地方)の志願兵や兵士に限定して徴発されるようになった。これは、東国の人々が弓馬の扱いに優れていたことや、内乱を防ぐために東国の武装力を中央から遠ざけ、国境警備に転用する意図があったと考えられている。

防人の任期は原則として3年であったが、その実態は極めて過酷であった。難波津(現在の大阪市)から筑紫(九州)までの旅費や食糧、現地での武器や衣服などはすべて自己負担(自弁)とされていた。そのため、東国から九州へと向かう道中で飢えや過労によって行き倒れる者が続出し、残された家族もまた働き手を失って没落するなど、農民社会に深刻な打撃を与えた。

『万葉集』にみる「防人歌」とその歴史的意義

防人として徴発された人々や、その出発を見送る家族が詠んだ歌は、古代の歌集『万葉集』(特に巻20など)に数多く収録されており、これらは防人歌(さきもりうた)と呼ばれる。当時の兵部省の役人であった歌人・大伴家持らがこれらの歌を収集し、後世へと書き残した。

歌の多くは東国方言で詠まれており、天皇への忠誠を誓いつつも、故郷に残した親や妻、子を思う切実な情愛、過酷な旅路への不安など、民衆の生々しい本音が表現されている。これは、貴族的な美意識が中心であった古代文学において異彩を放っており、当時の一般農民の悲惨な生活実態や、彼らの精神世界を今に伝える極めて貴重な歴史的史料となっている。

平安時代に入り、新羅との緊張緩和や、中央集権的な軍事制度の崩壊(健児の制の導入など)に伴い、防人制度は次第に有名無実化し、10世紀頃には事実上消滅した。

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