白村江の戦い

重要度
★★★

白村江の戦い (はくすきのえのたたかい)

663年

【概説】
663年、百済復興を支援するために朝鮮半島に渡った倭国(日本)軍が、白村江において唐・新羅の連合軍に大敗を喫した海戦。この敗北は日本の東アジア外交を根本から転換させ、その後の防衛体制強化や中央集権的な律令国家の形成を強力に推し進める最大の契機となった。

東アジア情勢の激変と百済滅亡

7世紀中頃の東アジアは、大帝国である唐が周辺諸国への圧力を強め、激動の時代を迎えていた。朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が三国鼎立していたが、唐は孤立していた新羅と結んで「唐・羅同盟」を結成し、半島平定に乗り出した。660年、唐・新羅連合軍は百済に侵攻し、首都の泗沘(しび)を陥落させて百済を滅亡させた。

しかし、鬼室福信ら百済の遺臣たちは復興軍を組織し、古くからの同盟国であった倭国(日本)に対し、人質として滞在していた百済の王子・豊璋(ほうしょう)の送還と軍事支援を要請した。当時の倭国にとって百済は先進的な大陸文化の重要な窓口であり、半島における政治的足場を失うことは安全保障上の重大な危機であったため、朝廷は大規模な援軍の派遣を決定した。

大軍の派遣と白村江での壊滅

時の斉明天皇中大兄皇子(のちの天智天皇)は、自ら大軍を率いて九州に出征した。しかし661年、前線基地である筑紫の朝倉橘広庭宮で斉明天皇が急死してしまう。中大兄皇子は天皇の位に就かないまま政務を執る「称制」を行い、派兵を続行した。

倭国軍は数次にわたって朝鮮半島へ渡海したが、663年8月、錦江(きんこう)の河口である白村江(はくすきのえ/はくそんこう)において、唐の水軍と遭遇し決戦となった。倭国軍は兵数では勝っていたものの、指揮系統が乱れ、軍船の性能や戦術面で圧倒的な優位に立つ唐軍の前に陣形を完全に崩された。結果、倭国の水軍は四方から火攻めに遭い、「海水は赤く染まった」と記録されるほどの歴史的大敗を喫した。これにより百済復興の希望は完全に絶たれ、倭国軍は生き残った百済の遺民たちを伴って日本列島へ逃げ帰ることとなった。

国防体制の急務と内政の転換

白村江の敗戦は、倭国に「唐・新羅連合軍が海を越えて日本列島に侵攻してくるかもしれない」という前代未聞の国家存亡の危機感をもたらした。中大兄皇子はこの脅威に対抗するため、急ピッチで西日本の防衛体制を構築した。

対馬や壱岐、筑紫に敵の襲来を知らせる(とぶひ)や国境警備の兵である防人(さきもり)を配置し、大宰府の防衛線として巨大な土塁と水堀からなる水城(みずき)を築造した。さらに、大野城や基肄城(きいじょう)など、朝鮮式山城と呼ばれる堅固な古代山城を西日本各地に築かせた。また、667年には政治の中心を飛鳥から内陸部の近江大津宮へと遷都し、本土決戦をも辞さない構えを見せた。翌668年、中大兄皇子はついに即位して天智天皇となり、強力なリーダーシップのもとで国家体制の引き締めを図っていった。

律令国家「日本」誕生への歴史的意義

白村江の戦いは、単なる一海戦の敗北にとどまらず、古代日本の国家形成において極めて重要な画期となった。この敗北によって倭国は朝鮮半島への軍事的・政治的介入を完全に断念し、伝統的な東アジアの国際関係から距離を置くことを余儀なくされた。

しかし、迫り来る外圧の危機は、国内の豪族たちの反発を抑え込み、天皇を中心とする強力な中央集権国家を創り上げる最大の動機付けとなった。天智天皇のもとで日本初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)が作成され、近江令が制定されるなど、律令国家への歩みが急加速したのである。後に国号が「倭」から「日本」へと改められ、君主号が「大王」から「天皇」へと変わっていくのも、この白村江での敗戦を契機とした国家意識の目覚めと、唐の冊封体制から自立した独立国家を構築・誇示する必要性から生まれた結果であると評価されている。

江南の発展: 南宋まで (岩波新書 新赤版 1805 シリーズ中国の歴史 2)

中国の辺境から経済の中心地へと変貌を遂げた江南の発展を、南宋までの歴史を通じて描き出した重厚な歴史書。

シリーズ 地域の古代日本 筑紫と南島 (角川選書)

古代日本の辺境に位置した筑紫と南島の交流と、独自の社会構造を最新の考古学成果から解き明かす一冊。

日本史一問一答(ランダム)

Q. 藤原不比等らとともに律令の編纂作業を統括し、701年に大宝律令として完成させた天武天皇の皇子は誰か?
Q. 継体天皇を擁立して権勢を振るったが、百済への任那四県の割譲をめぐって物部氏などから非難され、失脚した豪族は誰か?
Q. 王仁が日本にもたらしたとされる、異なる千個の漢字で構成された子供向けの漢字学習用テキストは何か?