粛慎 (みしらせ)
【概説】
飛鳥時代の斉明天皇期に、阿倍比羅夫率いる水軍によって討伐されたとされる北方の異民族。古代の日本(倭国)において、現在の東北地方に居住していた「蝦夷(えみし)」よりもさらに北方に位置したとされる人々に対する呼称である。
阿倍比羅夫の北方遠征と「粛慎」との衝突
『日本書紀』によると、斉明天皇4年(658年)から同6年(660年)にかけて、越国守であった阿倍比羅夫(あべのひらふ)が、日本海沿岸を北上する大規模な軍事遠征を行った。この遠征の主たる目的は、倭国の支配権力を北方に誇示し、東北地方の蝦夷を服属させることにあった。
比羅夫の水軍は、現在の秋田や青森地方の蝦夷を服属させた後、さらに北方に位置する「渡島(わたりしま:現在の北海道地方)」へと進出した。そこで倭国軍は、蝦夷の要請を受ける形で、彼らを脅かしていた「粛慎」の拠点を攻撃したとされる。比羅夫は粛慎との戦闘に勝利し、多くの捕虜やヒグマ、ヒグマの皮などの戦利品を持ち帰って朝廷に献上した。
「粛慎」の正体と歴史的意義
日本史における「粛慎(みしらせ)」は、古代中国の文献に登場する満州方面の半農半猟民族「粛慎(しゅくしん)」の名を、知識人たちが借用して当てはめたものである。したがって、中国史上の粛慎と日本史上の粛慎は同一ではない。近年の考古学的な研究によれば、この「みしらせ」の実体は、当時北海道のオホーツク海沿岸からサハリン(樺太)、千島列島にかけて展開していたオホーツク文化の担い手(ニヴフやウイルタの祖先系統など)であったと考えられている。
大和朝廷による粛慎討伐は、単なる北方の辺境平定にとどまらない。同時代の東アジアは、唐と新羅の同盟による高句麗・百済への圧迫(白村江の戦い前夜の緊張)など、激動のただ中にあった。このような国際情勢下において、倭国は自国を中心に据え、周囲の蝦夷や粛慎を「夷狄(おろかな他民族)」として従える小帝国意識(天下観)を形成し、その支配領域の正当性を内外に示す政治的意図があったと評価されている。