大仏造立の詔 (だいぶつぞうりゅうのみことのり)
【概説】
743年(天平15年)、聖武天皇が近江国の紫香楽宮において発布した、盧舎那仏(大仏)の造立を命じる詔。度重なる政争や疫病などの社会不安を仏法の力で鎮めようとする鎮護国家思想に基づき、広く民衆に造立への協力を呼びかけた。
相次ぐ社会不安と鎮護国家思想
奈良時代前半の8世紀前半は、表面的には律令国家の完成期であったが、内部では深刻な社会不安を抱えていた。長屋王の変(729年)に始まる権力闘争、政権を握った藤原四子(四兄弟)の天然痘による相次ぐ病死(737年)、さらには藤原広嗣の乱(740年)といった政治的混乱が立て続けに発生した。加えて、大地震や飢饉、疫病の猛威が民衆の生活を直撃していた。
このような国難を前に、聖武天皇は深い苦悩を抱き、仏教の力によって国家の安泰と国民の幸福を図る鎮護国家思想に深く傾倒していった。741年(天平13年)には諸国に国分寺・国分尼寺の建立を命じる詔を発布し、国家的な仏教ネットワークの構築に着手していた。大仏造立の詔は、この鎮護国家の政策をさらに推し進め、その頂点に位置づけられる一大国家プロジェクトの始まりを告げるものであった。
詔の発布と「知識」の結集
743年(天平15年)、聖武天皇は当時の造営地であった近江国の紫香楽宮(しがらきのみや)において、盧舎那仏(るしゃなぶつ)の造立を命じる詔を発布した。盧舎那仏は『華厳経』の主尊であり、宇宙の真理そのものを体現し、太陽のようにあまねく世界を照らす仏とされる。聖武天皇は、天皇を頂点とする国家秩序と、盧舎那仏を中心とする華厳の教えを重ね合わせ、世界の調和を願ったのである。
この詔の中で特筆すべきは、造立の理念として広く人々の協力を求めた点である。天皇は「一枝の草、一把の土」であっても、造立に協力したいという者の参加を許すと宣言した。これは、仏教への信仰に基づく人々の自発的な協力・結縁である「知識」の力を借りることを意味し、従来の国家主導で完結させていた寺院造営からの大きな方針転換であった。
行基の起用と造立事業の展開
民衆の力を結集するため、朝廷はかつて「小僧」として弾圧していた民間布教の指導者・行基(ぎょうき)を造営の責任者である大勧進(だいかんじん)に起用した。行基は各地でため池や橋を造るなどの社会事業(利他行)を行い、民衆から絶大な支持を集めていた。彼の持つ圧倒的な動員力と技術集団の力は、大仏造立という未曾有の巨大工事には不可欠であったのである。
造立事業は紫香楽宮で開始されたが、山火事や地震が相次いだため、聖武天皇は平城京に帰還し、現在の東大寺(当時は金鍾寺)の地で本格的な鋳造が開始された。莫大な銅や黄金、そして延べ数百万人とも言われる労働力が投入され、聖武天皇の譲位後である752年(天平勝宝4年)、孝謙天皇のもとで盛大な大仏開眼供養会(だいぶつかいげんくようえ)が挙行され、ついに大仏は完成を見た。
大仏造立の歴史的意義と影響
東大寺大仏の完成は、天平文化の粋を集めた文化的金字塔であると同時に、日本における仏教の普及と鎮護国家体制の確立を象徴する出来事であった。しかし、その裏側には複雑な社会状況が存在した。
奇しくも大仏造立の詔と同年の743年に、墾田永年私財法が制定されている。これは農地開墾を奨励する目的があったが、大仏造立や国分寺建立という巨大プロジェクトの財源確保や、有力な貴族・寺社からの経済的協力を引き出すための側面があったとも指摘されている。
大仏造立は国家の威信をかけた偉業であったが、莫大な財政支出と民衆への労役負担をもたらし、結果的に律令国家の財政を逼迫させる要因の一つとなった。このように、大仏造立の詔は、奈良時代の輝かしい文化と、それに伴う国家・社会の矛盾という二面性を如実に示している史料である。