全官公庁共同闘争委員会 (ぜんかんこうちょうきょうどうとうそういいんかい)
【概説】
太平洋戦争直後の激しいインフレと生活苦を背景に、二・一ゼネストを計画・主導する目的で結成された官公庁労働組合の共同闘争組織。国鉄や逓信、教員などの現業・非現業の官公庁労働者が結集し、吉田茂内閣への対決姿勢を強めた。しかし、連合国軍最高司令官マッカーサーの発した中止命令によってストライキは挫折し、のちの労働運動の方向性に大きな影響を与えた。
結成の背景と社会情勢
敗戦直後の日本は、空襲による産業破壊と外地からの引き揚げによる人口増加、さらに急激なハイパーインフレと食糧難に見舞われ、国民生活は極限の窮乏状態にあった。こうした中、GHQ(連合国軍総司令部)による民主化政策の一環として労働三法が整備され、労働運動が急速に高揚した。特に民間労働者に比べて極めて低い賃金水準に置かれていた国鉄、郵便、教員などの官公庁職員は強い危機感を抱き、1946年11月、それぞれの組合を結集させて全官公庁共同闘争委員会(全官公庁共闘)を組織した。彼らは実質的な生活給の確保や最低賃金制の導入、さらには労働運動を敵視する第一次吉田茂内閣の打倒を掲げて団結した。
二・一ゼネストの計画と挫折
全官公庁共闘は政府への要求が受け入れられない場合、1947年2月1日をもって全産業にわたる無期限のゼネラル・ストライキ(二・一ゼネスト)に突入することを宣言した。民間労組もこれに呼応し、参加予定者は約400万人に達する未曾有の社会運動となる様相を呈した。しかし、日本の混乱と共産主義運動の急進抗争化を警戒したGHQは態度を一変させ、スト決行直前の1月31日、マッカーサー最高司令官が公式にスト中止命令を発した。これを受けて共同闘争委員長であった伊井弥四郎がラジオ放送で中止を発表し、ストライキは幻に終わった。この事件の後、全官公庁共闘は解散を余儀なくされ、労働運動に対するGHQの抑制的な姿勢が明確化することとなった。