東国
【概説】
古代の律令国家において、畿内から見て東方に位置した東海・東山両道の地域を指す地理的・歴史的空間。現在の東海地方から関東地方などに相当し、中央朝廷からは物資の供給源や、国防を担う「防人」の主要な徴発地として極めて重視された。
律令制下における「東国」の地理的範囲と性格
古代日本において、大和朝廷は支配領域を拡大する過程で、現在の三重県から東の伊勢、尾張、三河、駿河などを経て、さらに東の「坂東(ばんどう:関東地方)」に至る広大な地域を「東国」と総称した。行政区分である五畿七道においては、主に東海道と東山道(特に現在の長野・群馬・栃木・福島南部など)に属する諸国がこれに該当する。
東国は肥沃な大地と豊かな人口を擁する一方で、北東に広がる「蝦夷(えみし)」の居住地と接するフロンティア(境界地域)でもあった。中央の貴族からは文化的・政治的に遅れた未開の地とみなされることも多かったが、朝廷の財政を支える税源として、また国家の軍事力を支える基盤として、きわめて重要な地位を占めていた。
国防を支えた東国の武力と「防人」
東国が古代国家において独自の存在感を示した最大の要因は、その強靭な軍事力にあった。特に663年の白村江の戦いで倭(日本)が唐・新羅の連合軍に大敗すると、九州沿岸の防備を固めるために防人(さきもり)が組織された。当初は全国から徴発されていた防人だが、730年(天平2年)以降は、弓馬の術に優れ、戦闘能力が高い東国の兵士に限定して徴発されることとなった。
故郷から遠く離れた筑紫(九州)の地へと赴く軍役は、東国の農民にとって死を覚悟するほどの過酷な負担であった。その悲哀や望郷の念は、東国方言で詠まれた『万葉集』の「防人歌」に生々しく遺されており、当時の東国社会の実態を知る貴重な史料となっている。
武士の誕生と「東国」の歴史的意義
古代の「東国」で培われた強靭な武力と自立的な地域性は、やがて日本の歴史構造を大きく転換させる原動力となった。平安時代中期以降、中央から赴任した国司(受領)の圧政に対抗するため、東国に土着した皇族・貴族の子孫(桓武平氏や清和源氏など)は、現地の開発領主らと結びつき、武装集団である武士団を形成していく。
10世紀前半に起きた平将門の乱は、東国の自立性を象徴する最初の本格的な反乱であり、その後も前九年の役・後三年の役などを通じて東国武士の結束は強まっていった。この強靭な東国武士団の支持を背景に、12世紀末に源頼朝が鎌倉に初の本格的な武家政権(鎌倉幕府)を樹立したことにより、東国は名実ともに日本の中世を牽引する政治・軍事の中心地へと変貌を遂げることとなる。