烽 (とぶひ)
【概説】
古代日本において、外敵の侵入などの緊迫した状況を、煙や火を用いて遠方に伝達した軍事的な通信施設。昼間は煙(烽)、夜間は火(燧)をリレー形式で次々と高所の拠点へと繋ぎ、太宰府や平城京などの政治的中枢へ迅速に異変を知らせる役割を担った。
東アジアの国際緊張と「とぶひ」の誕生
烽(とぶひ)が日本史上に登場する契機となったのは、7世紀中葉の緊迫した東アジアの国際情勢である。663年、倭国(日本)は百済復興を支援して唐・新羅の連合軍と戦ったものの、白村江の戦いにおいて大敗を気した。これにより、唐・新羅連合軍による日本本土への侵攻が現実的な脅威となったため、中大兄皇子(のちの天智天皇)は急ピッチで国防体制の整備を進めた。
この防衛策の一環として、九州北部から都(当時は近江大津宮)に至る要衝に、防人(さきもり)の配置、水城(みずき)の築堤、大野城をはじめとする朝鮮式山城の築城が行われた。これらと同時に、敵の襲来をいち早く大宰府や朝廷に報告するための緊急通信網として整備されたのが烽である。特に、対馬、壱岐、筑紫(福岡県)など、朝鮮半島に面した最前線には重点的に配置された。
律令制度における運用と軍防令の規定
飛鳥時代から奈良時代へと進み、大宝律令(701年)や養老律令(718年)が編纂されると、烽の運用は国家の法制度(軍防令)の中に体系的に組み込まれた。法令では、昼間に上げる煙を「烽」、夜間に上げる火を「燧(すい)」と区別し、事態の緊急度に応じて挙げる煙や火の数を変えるなどの細かなルールが定められていた。
それぞれの烽には、管理責任者である「主政(しゅせい)」や、実際の監視・点火業務を行う「烽子(ほうし)」と呼ばれる兵士が配備された。彼らは天候の良し悪しにかかわらず、常に四方に目を光らせていなければならず、怠慢があれば厳罰に処された。なお、雨天や霧によって煙や火が見通せない場合に備え、馬を走らせて情報を伝える「飛駅(ひえき)」や「伝馬」による通信手段も併せて用意されており、二重の緊急連絡網が形成されていた。
国家の安定と防衛体制の変容
奈良時代を通じて、新羅との緊張関係が続く間は烽の重要性は極めて高かった。しかし、平安時代に入り、東アジアの情勢が安定期に向かうと、防衛体制の維持にかかる莫大なコストや労力は国家の負担となっていった。また、律令制そのものの弛緩に伴い、各地の烽は徐々に管理が行き届かなくなり、9世紀から10世紀頃には実質的に機能しなくなっていった。
烽の衰退は、律令国家が「公地公民」や「国民皆兵」を基礎とする軍事支配から、地方の有力田堵(開発領主)や武士団といった私的な武力へ国防・治安維持を依存していく歴史的変遷とも深く連動している。しかし、烽が確立した視覚的情報の長距離・高速リレーという発想は、のちの戦国時代の「狼煙(のろし)」へと継承されることとなった。