足利義満
【概説】
室町幕府の第3代将軍。1392年に南北朝の合体を実現し、京都室町に花の御所を造営して幕府の最盛期を築き上げた人物である。有力守護大名の統制や日明貿易(勘合貿易)の開始、北山文化の形成など、政治・経済・文化のあらゆる面で公武に君臨する絶対的な権力を確立した。
幼少での将軍就任と幕府権力の強化
足利義満は、第2代将軍・足利義詮の長男として生まれた。1367年に父が急死したため、わずか10歳で第3代将軍に就任する。就任当初は管領の細川頼之が幼い将軍を補佐し、南朝勢力との戦いや幕政の安定に尽力した。1379年の康暦の政変で頼之が失脚した後は、成長した義満が自ら親政を開始し、将軍の専制権力強化へと乗り出していく。
義満は、幕府の脅威となり得る有力な守護大名を次々と挑発し、反乱を起こさせては討伐するという巧妙な策を用いた。1390年の土岐康行の乱、1391年の明徳の乱(山名氏清の討伐)、そして1399年の応永の乱(大内義弘の討伐)を通じて、強大な軍事力を持っていた有力守護を意図的に弱体化させることに成功した。これにより、将軍直轄軍である奉公衆の整備と相まって、将軍の絶対的優位が確立されたのである。
花の御所の造営と京都支配
1378年、義満は京都の室町に新たな将軍邸である花の御所(室町殿)を造営した。これは単なる邸宅ではなく、政治・行政の機能を集中させた幕府の新たな中枢であった。初代将軍の尊氏や2代将軍の義詮の時代は、戦乱が続いており幕府の所在地も流動的であったが、花の御所の完成により幕府は名実ともに京都に定着し、これ以降「室町幕府」と呼ばれるようになった。
南北朝の合体(明徳の和約)
義満の最大の政治的功績の一つが、半世紀以上続いた南北朝の動乱を終結させたことである。1392年、義満は南朝の後亀山天皇に対し、両統迭立(大覚寺統と持明院統の交互即位)や全国の国衙領の南朝への譲渡などを条件に和睦を提案した。これを受け入れた後亀山天皇が京都に赴き、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲渡する形で、南北朝の合体が成立した(明徳の和約)。
しかし、和約の条件であった両統迭立などの約束は後に義満によって反故にされ、皇位は事実上、北朝(持明院統)に一本化された。大義名分を掲げる南朝という対抗勢力が消滅したことで、室町幕府は真の意味で全国規模の武家政権として完成したのである。
日明貿易(勘合貿易)の開始
国内の平定を成し遂げた義満は、対外関係の修復と莫大な富の獲得を目指した。当時、中国大陸に成立した明は、周辺諸国に朝貢を求めるとともに、海賊である倭寇の取り締まりを日本に要求していた。義満はこれに応じ、1401年に祖阿や肥富らを遣明船として派遣した。翌年には明の建文帝から「日本国王」に封じられ、明の皇帝に臣従する朝貢形式での貿易が開始された。
1404年からは、正式な貿易船であることを証明する札を用いた勘合貿易がスタートした。この貿易によって幕府は大量の銅銭(永楽通宝など)や生糸、陶磁器などの貴重な品々を輸入し、幕府の強固な財政基盤を築き上げた。なお、形式上とはいえ他国の家臣となるこの外交姿勢は、のちに民族的自尊心を損なうとして後世の批判を浴びることにもなった。
公武政権の頂点と北山文化
義満は武家としての頂点を極めるだけでなく、朝廷内での権力掌握も推し進めた。1394年には武家として初めて朝廷の最高位である太政大臣に任じられ、翌年には出家して法体をまといつつ、事実上の最高権力者として君臨し続けた。1397年には京都の北山に壮麗な山荘(北山第)を造営し、その中心的な建築物が金閣(鹿苑寺)であった。公家文化と武家文化、そして中国(明)の文化や禅宗が融合したこの時代の文化は北山文化と呼ばれる。
晩年の義満は、天皇の行事に際して上皇(治天の君)と同等の待遇を受け、正妻の日野康子を後小松天皇の准母(母親代わり)とするなど、天皇家の家長として振る舞った。さらに、次男の義嗣を親王と同格の扱いで元服させるなどしたため、義満には皇位を簒奪する(あるいは天皇家を足利家に取り込む)野望があったとする「皇位簒奪説」も歴史学における有力な議論となっている。1408年に義満が急死したことでその真意は歴史の闇に消えたが、彼が日本史上において類を見ない絶大な権力を握った人物であったことは間違いない。