源経基(経基王)

高校日本史的重要度
★★

【参考リンク】
源経基(Wikipedia)

語呂合わせ:「つねってもっと!」「うっせーわw」(つねってもっと→源経基、うっせーわw→清和源氏)

どういう状況なの!

源経基(経基王) (みなもとのつねもと/つねもとおう)

?〜961年

【概説】
平安時代中期の皇族・武将であり、清和源氏の始祖となった人物。皇室から臣籍降下して源氏の姓を賜り、承平・天慶の乱(平将門の乱・藤原純友の乱)の鎮圧に貢献して武家としての地盤を築いた。

清和源氏の祖としての出自と臣籍降下

源経基は、清和天皇の第六皇子である貞純親王の子(一説には陽成天皇の皇子ともされる)であり、当初は経基王と称された。平安時代中期、皇族の数が肥大化して財政を圧迫したため、皇位継承から外れた皇族を臣下にする「臣籍降下」が盛んに行われていた。経基もこれに伴い、源朝臣(みなもとのあそん)の姓を賜って臣籍に下り、のちに武門の名門として栄える清和源氏の祖となった。経基の系統は、その後の源頼朝や足利尊氏といった武家政権の創始者たちへと繋がっていくことになる。

平将門との確執と「承平・天慶の乱」の端緒

経基の名が歴史上に大きく登場するのは、天慶元(938)年に武蔵国の国司の次官である武蔵権介(むさしのごんのすけ)として東国へ赴任した際である。当時、武蔵国では新任国司の源経基・興世王らと、在地領主である足立郡司・武蔵武芝との間で激しい対立が生じていた。この紛争の調停に乗り出したのが、近隣の下総国で勢力を誇っていた平将門であった。しかし、交渉の最中に兵の衝突が起きたことで、身の危険を感じた経基は京へと逃げ帰り、「将門に謀反の意図あり」と朝廷に密告(誣告)した。この時点では将門の弁明によって経基の訴えは退けられたものの、この確執がのちの平将門の乱を引き起こす決定的な要因の一つとなった。

二大反乱の鎮圧と武家貴族としての飛躍

天慶2(939)年、平将門が関東で本格的な反乱(新皇の自称)を起こすと、経基の密告が事実であったとして、朝廷は彼を免罪した上で征東副将軍に任命した。将門自身は経基らが東国に到着する前に平貞盛や藤原秀郷らによって討たれたが、経基は続いて西国で蜂起した藤原純友の乱の平定に起用される。追捕使の次官(中路追捕使介)に任じられた経基は、追捕使長官の小野好古らとともに瀬戸内海へと下向し、純友の軍勢を撃破して乱を鎮圧する武功を挙げた。この承平・天慶の乱における活躍により、経基は武名を高め、武蔵権守、信濃守などを経て、最終的には従四位下・鎮守府将軍にまで昇進した。彼の築いた武威と中央貴族としての地位は、息子の源満仲へと受け継がれ、摂関家と結びつくことで清和源氏は一大武士団へと成長していくこととなる。

最終更新:
2026年10月10日 @ 13:02

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