室町幕府滅亡

1573年、織田信長が将軍足利義昭を京都から追放したことによってもたらされた、歴史的な政権の崩壊を何というか?
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【参考リンク】
室町幕府(Wikipedia)

室町幕府滅亡

1573年

【概説】
1573年(元亀4年/天正元年)、織田信長によって室町幕府第15代将軍・足利義昭が京都から追放され、幕府機構が事実上崩壊した出来事。これにより、1336年の足利尊氏による建武式目制定以来、約240年続いた室町幕府は中央政権としての実体を失い、日本の歴史は本格的な安土桃山時代(織豊期)へと移行することとなった。

織田信長と足利義昭の蜜月と対立

永禄11年(1568年)、足利義昭は新興勢力であった織田信長の武力を背景に入京し、第15代征夷大将軍に就任した。当初、両者は「将軍とそれを支える実力者」として協力関係にあった。しかし、義昭が旧来の幕府権力の復興を目指し、全国の大名に独自に御内書(将軍の書状)を発給して政治的主導権を握ろうとしたのに対し、信長は天下の平定を自らの手で成し遂げようと目論んでいた。信長は「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」などを突きつけて将軍の権力や行動を著しく制限しようとしたため、両者の関係は次第に悪化していった。

信長包囲網の形成と武田信玄の西上

信長の専横に不満を募らせた義昭は、密かに浅井長政、朝倉義景、武田信玄、本願寺顕如、毛利輝元などの有力大名に連絡を取り、反信長の同盟、すなわち「信長包囲網」を形成した。元亀3年(1572年)には、甲斐の武田信玄が大規模な西上作戦を開始し、三方ヶ原の戦いで徳川家康・織田信長連合軍を大破した。この知らせを受けた義昭は、信長の劣勢を確信し、翌元亀4年(1573年)に二条城で信長に対して公然と挙兵した。

義昭の追放と幕府の事実上の滅亡

ところが、元亀4年(1573年)4月、武田信玄が陣中で病死するという事態が発生し、武田軍は甲斐へと撤退してしまった。最大の脅威が去った信長は直ちに反撃に転じ、京都の義昭を包囲した。一度は正親町天皇の勅命によって和睦が成立したものの、同年7月、義昭は再び山城国の槇島城(まきしまじょう)に立て籠もって挙兵した。信長はこれを猛攻して降伏させ、義昭の助命と引き換えに彼を京都から追放した。この出来事をもって、京都における統治機構としての室町幕府は崩壊し、事実上滅亡したとされる。

滅亡後の義昭と歴史的意義

京都を追われた義昭は、毛利氏を頼って備後国の鞆の浦(とものうら)に動座した。義昭は依然として征夷大将軍の官職を保持したまま、各地の大名に御内書を送り続けて反信長活動を行ったため、この亡命政権は「鞆幕府」とも呼ばれる。形式的な観点からは、義昭が豊臣秀吉に臣従して将軍職を朝廷に辞任する天正16年(1588年)まで室町幕府は存続していたとする法制史的な見解も存在する。

しかし、1573年の義昭追放によって将軍と幕府の政治的・軍事的な実体は完全に失われており、政治史においては同年を室町幕府滅亡の年とするのが一般的である。約240年にわたって続いた足利氏による武家政権の終焉は、中世的権威の完全な失墜を意味し、日本列島が安土桃山時代という新たな歴史のステージへ進む決定的な転換点となった。

足利義昭と織田信長 (中世武士選書40)

室町幕府の終焉を招いた将軍と信長の対立構造を、史料に基づき解き明かす歴史探求の必読書。

室町幕府論 (講談社選書メチエ 486)

武家政権の統治機構や権威の在り方を重層的に分析し、室町幕府の実像を浮き彫りにする学術的考察の書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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