朝臣 (あそん)
【概説】
飛鳥時代の684年に制定された「八色の姓(やくさのかばね)」において、第2位に位置づけられた姓(かばね)。旧来の「臣(おみ)」などの有力豪族に広く与えられ、天皇を頂点とする官僚機構への再編に利用された。のちに「源平藤橘」をはじめとする貴族・武士の公式な姓として広く定着した。
八色の姓の制定と「朝臣」の創設
天武天皇は、壬申の乱(672年)を経て強力な専制権力を確立した後、律令国家の建設に向けた官僚制度の整備を急いだ。その一環として、684年(天武天皇13年)10月に、従来の氏姓制度を全面的に再編した八色の姓を制定した。この制度は、天皇を中心とする新たな身分秩序を編成することを目的としていた。
八色の姓は、真人(まひと)、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)の8つの姓から構成される。このうち「朝臣」は、皇族(公親)に与えられる最高位の「真人」に次ぐ、第2位の極めて高い格式を持つ姓として創設された。
朝臣の授与と旧豪族の再編
朝臣の姓は、主に大化の改新以前から朝廷の要職を占めていた旧「臣」系の有力豪族(蘇我氏の流れを汲む石川氏や、巨勢氏、春日氏など)を中心に、計52氏に与えられた。これに対し、かつて大連(おおむらじ)などを輩出した旧「連」系の有力豪族(大伴氏や物部氏の流れを汲む石上氏など)には、第3位の「宿禰」が与えられることが多かった。
この格付けには、天武天皇による巧妙な政治的意図が存在した。伝統的な名門豪族を一律に天皇中心の官僚機構へと組み込みつつ、天武天皇に近い皇族のみに与えられる「真人」を最上位に置くことで、皇位の神聖性と天武皇統の優位性を担保したのである。これにより、かつての自立的な氏族共同体としての性格は解体され、すべての氏族が天皇の下に序列化されることとなった。
律令制下における「朝臣」の一般化と形骸化
奈良時代から平安時代へと時代が下るにつれ、八色の姓の下位の姓は次第に衰退し、官人の姓は「朝臣」や「宿禰」などの上位の姓に集約されていった。特に「朝臣」は、天皇の臣下の代表格として、貴族層全般に広く普及することとなる。
のちに台頭する藤原氏をはじめ、皇籍離脱(臣籍降下)によって誕生した源氏、平氏、橘氏(いわゆる源平藤橘)などの主要な一族は、いずれも公式な姓(本姓)として「朝臣」を名乗った。その結果、中世から近世にかけての公式文書においては、ほぼすべての貴族や大名が「藤原朝臣○○」「源朝臣○○」のように署名することが通例となり、個別の氏族を区別する機能としての姓から、一定以上の公的な身分(五位以上の貴族)を示す形骸化した称号へと変質していった。