公選制
【概説】
選挙によって代表者(議員など)を公的に選出する制度。近代日本においては明治憲法体制の成立にともない、衆議院議員や地方議会議員を対象として限定的に導入された。主権在民の現代とは異なり、天皇主権のもとで国民の協賛を得るための制限的な仕組みとしてスタートした。
自由民権運動と近代選挙制度の幕開け
明治維新後、藩閥政府による専制政治(有司専制)に対抗して、1870年代から自由民権運動が活発化した。民権派は「民撰議院設立建白書」の提出などを通じて国会の開設と公選による議会の設置を強く要求した。政府はこうした世論の動揺を鎮めるため、1881年に「国会開設の勅諭」を出し、10年後の国会開設を約束した。
これを受けて、1889年の大日本帝国憲法発布と同時に衆議院議員選挙法が制定され、日本に近代的な公選制が初めて導入されることとなった。これにより、翌1890年には第1回衆議院議員総選挙が実施され、官選(任命制)の貴族院と並んで、民意を反映する衆議院が立憲政治の一翼を担うこととなった。
納税資格による「制限選挙」の実態
明治期に導入された公選制は、現代のような誰もが投票できる普通選挙とは大きく異なっていた。初期の衆議院議員選挙における有権者は、「直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子」に限定されていた。この厳しい納税要件により、有権者は地主や豪商など一部の富裕層に限られ、全人口のわずか約1.1%(約45万人)にすぎなかった。
この制限選挙制は、政府が急進的な民意の反映を防ぎ、国家財政を支える有産階級のみを政治に関与させるための安全弁として機能した。その後、1900年に納税資格が10円以上に、1919年には3円以上へと段階的に引き下げられたものの、依然として制限選挙の枠組みは維持された。納税要件が撤廃され、満25歳以上のすべての男子に選挙権が与えられる普通選挙法の成立は、大正デモクラシー期の1925年まで待つ必要があった。
地方自治における公選制とその限界
公選制は国政レベル(衆議院)だけでなく、地方自治の場にも段階的に導入された。山県有朋を中心とする政府は、1888年に市制・町村制、1890年に府県制・郡制を制定し、地方議会議員の公選制を定めた。これは、国会が開設される前に地方自治の基盤を安定させ、地域社会の有力者を地方政治に取り込むことを目的としていた。
しかし、この地方議会における公選制も極めて限定的なものであった。市町村議会の選挙では、納税額に応じて有権者を1等〜3等に分ける等級選挙制が採用され、少数の高額納税者が多数の議員を選出できる不平等な仕組みであった。さらに、地方自治体の首長である府県知事は内務省から直接任命される官選であり、市町村長も議会による推薦と政府の認可が必要であったため、住民が直接首長を選ぶような完全な地方自治の公選制は、第二次世界大戦後の日本国憲法制定まで実現しなかった。