府県制・郡制
【概説】
1890(明治23)年、第1次山県有朋内閣のときに公布された府県および郡の地方自治に関する法律。1888年公布の市制・町村制と合わせて明治の地方自治制度を完成させたものであり、地方の名望家(大地主など)を体制側に組み込んで地方行政を担わせた。
制定の背景と地方自治制度の完成
明治政府は、大日本帝国憲法の制定と帝国議会の開設を控えた1880年代後半、国家体制の基盤を固めるための法整備を急いでいた。その中核を担ったのが、内務大臣として絶大な権力を握っていた山県有朋である。山県は、ドイツ人お雇い外国人であるアルベルト・モッセの助言を受けながら、プロイセンの制度をモデルとした地方自治制度の構想を練り上げた。
1888(明治21)年にはまず末端の行政区画である「市制・町村制」が公布され、続いて1890(明治23)年に広域行政を担う「府県制」および「郡制」が公布された。これにより、中央政府の統制と地方の自治を折衷した、戦前の日本における地方自治制度の骨格が完成したのである。
制度の特質と「名望家」の組み込み
府県制・郡制は、府県と郡に法人格を与え、地方自治体として位置づけた。しかし、実態は極めて中央集権的な色彩が強く、首長である府県知事や郡長は官選(中央政府からの任命)とされ、強大な執行権限を握っていた。
一方で、議決機関として府県会と郡会が設置されたが、その議員選挙制度には巧妙な仕組みが施されていた。選挙権は高額納税者に限定されていたうえに、とくに郡会においては、町村会議員からの複階選挙による選出枠に加え、郡内の大土地所有者(大地主)から互選される独自の議員枠が設けられていた。この制度によって、地方社会において富と社会的威信を持つ「名望家」たちが、地方行政の議決機関へ優先的に取り込まれることになったのである。
反政府運動に対する政治的防波堤
山県有朋がこのような制度を構築した最大の目的は、当時全国に波及していた自由民権運動の基盤を切り崩し、同年(1890年)秋に開会が迫っていた第1回帝国議会における民党(野党)の攻勢を防ぐことにあった。
政治と行政を切り離そうと考えた山県は、地方の有力者である名望家たちに名誉ある地位と地方利益の誘導権を与え、彼らを国家体制の末端を支える実質的な行政の担い手へと変質させた。すなわち、名望家階層を中央の政党政治から引き離して保守化させ、反政府運動の激化を防ぐ「防波堤」として機能させようとしたのである。
郡制の廃止と二層構造への移行
しかし、この制度は制定当初から問題を孕んでいた。とくに郡制については、府県と町村の間に位置する「屋上屋を架す」煩雑で不要な制度であるとの批判が根強く、自由党などの民党はたびたび郡制廃止論を唱えた。また、資本主義の発展にともない地主の没落や農村社会の変容が進むと、名望家による郡制支配はその有効性を失っていった。
大正時代に入り、政党内閣の時代が到来すると、立憲政友会の原敬内閣のもとで1921(大正10)年に郡制廃止法が成立した。これに伴い、1923(大正12)年に郡会が、1926(大正15)年には郡役所も廃止され、日本の地方行政は「府県」と「市町村」による二層構造へと移行し、新たな局面を迎えることとなった。