出羽国

高校日本史的重要度
★★

出羽国 (でわのくに)

712年〜

【概説】
奈良時代の712年(和銅5年)、越後国出羽郡を昇格させて新設された、現在の山形県と秋田県にまたがる令制国。太平洋側の陸奥国と並び、律令国家による東北地方の「蝦夷(えみし)」支配および領域拡大において、日本海側の最前線基地としての役割を担った要衝。

律令国家の北方拡大と出羽国の建国

大化の改新(645年)以降、中央の律令政府は日本海沿岸を北上する形で支配領域の拡大を試みた。7世紀半ばには渟足柵(ぬたりのさく)や磐舟柵(いわふねのさく)を築き、斉明天皇期には阿倍比羅夫を遣わして北方遠征を行うなど、段階的な地盤固めが進められた。そうした中、708年(和銅元年)に越後国の北端に「出羽郡」が置かれ、続く712年(和銅5年)にそれが出羽国として独立した。

さらに翌713年には、太平洋側の陸奥国から置賜郡と最上郡の2郡が出羽国へと移管され、現在の山形県と秋田県のほぼ全域をカバーする広大な領域が形作られた。これは、それまで個別に進められていた日本海側と太平洋側の東北経営を、組織的に分担・再編するための行政改革の一環であった。

蝦夷支配の拠点と「秋田城」への遷移

出羽国における軍事・行政の初期中心地は、現在の山形県酒田市付近に置かれた出羽柵(でわのさく)であった。しかし、律令政府による北進政策が進むにつれ、支配の拠点はさらに北へと移動する。天平5年(733年)、出羽柵は秋田村高清水岡(現在の秋田市)へと移設され、のちに秋田城と呼ばれる軍事拠点へと発展した。

秋田城は、太平洋側の陸奥国に置かれた多賀城(たがじょう)と並び、北方の「まつろわぬ民」である蝦夷を帰順させ、国家の民(公民)として律令制下へ組み込むための政治的・軍事的な中枢として機能した。同時に、大陸や北方地域との交易ルートを監視する、外交上の対外窓口としての側面も持ち合わせていた。

平安期の変容と「奥州」の興隆

平安時代に入ると、過酷な徴税や支配に対する反発から、現地住民(俘囚)による大規模な反乱が勃発する。その代表例が、878年(元慶2年)に発生した元慶の乱(がんぎょうのらん)である。この反乱は出羽国の秋田城を震撼させ、政府の東北政策に大きな打撃を与えた。

その後、中央から派遣された国司の支配力が弱まると、出羽・陸奥の両国では現地の豪族が台頭する。11世紀の前九年・後三年の役を経て、出羽の清原氏を滅ぼした奥州藤原氏が東北全土に君臨することとなり、出羽国は平泉を中心とする独自の黄金文化圏に組み込まれていく。出羽国は、国家の限界線を示す「辺境」でありながら、中央文化と独自文化が交差する独自の歴史的地位を確立した国であった。

最終更新:
2026年6月24日 @ 10:16

日本史一問一答(ランダム)

Q. 1903年、ロシアの満州撤兵不履行を受けて、近衛篤麿らが中心となって結成し、強硬な開戦論(主戦論)を唱えた団体は何か?
Q. 応天門の変の際、伴善男によって放火の犯人であると偽の告発を受けた左大臣は誰か。
Q. 現在の宮崎県にあたり、ヤマト政権に対して度々反乱を起こした「隼人」と呼ばれる人々が住んでいた国はどこか?