俘囚

高校日本史的重要度
★★

【参考リンク】

俘囚 (ふしゅう)

【概説】
古代日本において、律令国家の支配に服属し、王化(天皇の統治)に帰した東北地方の蝦夷(えみし)を指す呼称。朝廷の同化政策によって全国各地へ強制的に移住させられ、彼らの持つ優れた騎射の技術は軍事力として利用された一方で、苛烈な差別や搾取を受け、各地で反乱を引き起こした。

朝廷の蝦夷征討と「俘囚」の誕生

奈良時代から平安時代初期にかけて、律令国家は支配領域を東北地方へと拡大すべく、蝦夷に対する度重なる軍事侵攻(三十八年戦争など)を行った。この過程で、朝廷の圧倒的な軍事力に屈服するか、あるいは朝廷からの懐柔策(位階や賜物の授与)に応じて律令支配に組み込まれた蝦夷の人々が俘囚と呼ばれた。

朝廷は彼らを「帰順した民」として扱ったが、戸籍に登録される一般の農民(良民)とは明確に区別されていた。あくまで「異民族が服属した状態」と見なされており、国家の強力な監視下に置かれる特別な身分であった。

全国への強制移住(移配)と同化政策

朝廷は、俘囚たちが東北地方で再び団結して反乱を起こすことを強く警戒した。そこでとられた政策が、俘囚たちを本来の居住地から引き離し、関東から西国に至る全国各地の国々へ強制的に移住させる移配(いはい)である。

移住先において、俘囚には国家から俘囚料(ふしゅうりょう)と呼ばれる食料や衣服、農具などが給付され、農耕を奨励することで同化政策が進められた。同時に、俘囚たちは古来より乗馬と弓術(騎射)に極めて秀でていたため、移住先で反乱の鎮圧や治安維持のための軍事力として動員されることも少なくなかった。後の武士の源流となる在地領主たちは、この俘囚の騎射技術を取り入れて武芸を発展させていったとも言われている。

差別的待遇と各地での反乱、政策の転換

しかし、移配先での俘囚の生活は悲惨なものであった。支給されるはずの俘囚料は現地の国司によって横領されることが常態化し、言語や風習の違いから在地の農民からは激しい差別と偏見を受けた。飢えや過酷な扱いに耐えかねた俘囚たちは、9世紀後半に入ると上総国(現在の千葉県)など全国各地で次々と武装蜂起した。

さらに、東北地方に残存していた俘囚たちも、国司の過酷な搾取に反発して878年(元慶2年)に出羽国で大規模な反乱である元慶の乱(がんぎょうのらん)を起こし、朝廷軍を大いに苦しめた。こうした俘囚問題の泥沼化を受け、朝廷はついに全国への移配政策を断念し、彼らを東北地方に留め置いた上で、現地の有力な蝦夷俘囚長(ふしゅうちょう)として認め、間接的に支配する方針へと大きく転換していく。11世紀以降に奥州を支配する安倍氏清原氏、さらには奥州藤原氏なども、この俘囚の系譜に連なる有力者たちであった。

最終更新:
2026年8月26日 @ 17:02

日本史一問一答(ランダム)

Q. 食封の制度によって、皇族や貴族、寺社に税を納めるように割り当てられた民戸(農家)のことを何というか?
Q. 前九年合戦で源頼義に協力して安倍氏を滅ぼし、東北地方の支配者となったが、のちの内紛で滅亡した出羽国の豪族は何氏か。
Q. 虎の門事件のあとに発足したが、閣僚の大半を貴族院議員で占めたため政党の猛反発を招き、第二次護憲運動を起こされた首相は誰か?