清原氏 (きよはらし)
【概説】
平安時代中期から後期にかけて、出羽国(現在の秋田県・山形県)を本拠に勢力を誇った豪族。前九年合戦において源氏に協力して陸奥の安倍氏を滅ぼし、奥羽両国の支配権を握って覇者となった。しかし、その後の凄惨な一族の内紛(後三年合戦)によって自滅し、その支配権は生存者である藤原清衡(奥州藤原氏の祖)へと受け継がれた。
前九年の役と清原氏の台頭
清原氏は、天武天皇の皇子である舎人親王(とねりしんのう)の後裔を称した高貴な出自をもつとされるが、実態は出羽国(現在の秋田県・山形県)に根を張った土着の強力な有力豪族であった。11世紀半ば、隣国の陸奥国(現在の東北地方太平洋側)で強力な在地豪族である安倍氏が朝廷に対して反乱を起こすと(前九年の役)、陸奥守・源頼義は苦戦を強いられた。頼義は形勢を逆転させるため、出羽で強大な武力を維持していた清原氏の首長・清原光頼・武則兄弟に臣従に近い平身低頭の姿勢で参戦を依頼した。
これに応じた清原武則が大軍を率いて参戦すると、戦況は一変した。清原氏の圧倒的な軍事力によって安倍氏は滅亡し、前九年の役は終結した。この功績により、武則は朝廷から従五位下・鎮守府将軍に任じられ、安倍氏が支配していた陸奥国の奥六郡をも与えられた。これにより清原氏は、陸奥・出羽の両国(奥羽地方)にまたがる広大な領域を支配する、東北地方最大の覇者となった。
後三年合戦と一族の自滅
東北の覇権を握った清原氏であったが、その繁栄は長くは続かなかった。武則の孫の代になると、複雑な婚姻関係や一族内の血縁関係のもつれから、深刻な家督争いが発生した。この清原氏の内紛に、陸奥守として下向してきた源義家(頼義の子)が介入したことで、事態は大きな戦争へと発展した。これが後三年合戦(1083年〜1087年)である。
合戦は、清原氏の当主となった清原真衡の急死後、真衡の義弟である清原(藤原)清衡と、異母弟の清原家衡との間の凄惨な戦いとなった。源義家は清衡を支援し、難攻不落とされた家衡の金沢柵(秋田県横手市)を兵糧攻めによって陥落させた。この結果、家衡らは滅ぼされ、清原氏の本家は滅亡することとなった。唯一生き残った清衡は、実父の姓である「藤原」に復し、後に平泉を拠点として100年にわたる繁栄を極める奥州藤原氏の祖となった。清原氏の滅亡は、中世東北における奥州藤原氏の黄金時代を準備する歴史的転換点となったのである。