越後国 (えちごのくに)
【概説】
北陸道に位置し、現在の新潟県の本州部分(佐渡国を除く地域)に比定される令制国。古代の律令国家形成期において、東北地方の蝦夷(えみし)に対する軍事・政治的進出の最前線拠点として極めて重要な役割を果たした。大化の改新期には渟足柵や磐舟柵が設置され、のちに越国が分割されることで成立した。
「北進」する律令国家と越後国の成立
古代の日本において、現在の北陸から東北の日本海側にかけての地域は「越(こし)の国」と呼ばれていた。7世紀中葉、大和朝廷による王権の拡大(のちの律令国家形成)にともない、この地域への支配の浸透が図られた。その象徴が、大化の改新(645年)の直後に置かれた城柵(じょうさく)である。647年に渟足柵(ぬたりのさく)、翌648年に磐舟柵(いわふねのさく)が設置され、これらは対蝦夷政策の軍事・行政拠点となった。
その後、持統天皇期から文武天皇期(7世紀末から8世紀初頭)にかけての令制国整備にともない、広大な越国は越前・越中・越後の3国に分割された(のちに越前から能登、越中から加賀が分立)。さらに708年には、越後国の北方にあった和銅(わどう)年間の新領土が編入され、出羽郡が置かれた。この出羽郡はのちに出羽国(山形県・秋田県)として独立し、越後国は出羽国・陸奥国とともに東国・北陸の境界領域としての性格を強めていくこととなる。
蝦夷政策の拠点から日本海交易の要衝へ
越後国は、単なる北方の境界であるだけでなく、日本海を経由した人・物の往来や外交(渤海使の来航など)においても重要な役割を担った。当初は蝦夷に対する防衛・制圧の最前線であったが、平安時代に進むにつれて前線がさらに北(出羽・陸奥の深部)へ移動したため、越後国は後方から物資や兵力を供給するロジスティクスの拠点へと変化した。
中世に入ると、守護大名や国人領主の割拠を経て、戦国時代には上杉謙信に代表される有力戦国大名の領国として一大軍事・政治拠点となった。さらに近世には、北前船の西回り航路の整備にともない、日本海交易の寄港地(三国港や新潟港など)として経済的な繁栄を遂げた。肥沃な平野部での新田開発も進み、日本随一の米どころとしての地位を確立していく。このように、越後国は古代の「国家の境界」から、中世・近世を通じて「軍事・経済の要衝」へとその歴史的意義を変遷させていったのである。