全面講和論

サンフランシスコ平和条約の締結をめぐり、資本主義国だけでなく、ソ連や中国などの社会主義国を含めた全交戦国と講和すべきだとする主張を何というか?
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全面講和論

1940年代後半〜1950年代前半

【概説】
第二次世界大戦後の日本において、ソ連や中華人民共和国を含むすべての交戦国との間で講和条約を結ぶべきであるとする主張。
アメリカ主導の西側陣営のみと講和を結ぶ「多数講和(単独講和)」に対抗する形で、日本社会党や総評、進歩的知識人らによって強く支持された。
最終的にサンフランシスコ平和条約の締結によって実現には至らなかったが、その後の戦後日本の平和主義や革新運動の原点となった。

冷戦の激化と対日講和問題

第二次世界大戦後、占領下にあった日本の独立回復(講和)は最大の政治課題であったが、当時の国際社会ではアメリカを中心とする資本主義陣営(西側)と、ソ連を中心とする社会主義陣営(東側)による冷戦が激化していた。1949年の中華人民共和国の成立や、1950年の朝鮮戦争勃発により、アメリカは日本をアジアにおける「反共の防波堤」として位置づけ、ソ連や中国を排除した西側諸国のみとの講和(多数講和、あるいは単独講和)を急ぐ方針を固めた。これに対し、当時の吉田茂内閣も親米路線の立場から多数講和論を受け入れ、西側陣営に属した形での早期独立回復を目指した。

全面講和論の展開と支持層

この多数講和路線に対し、日本国内の革新陣営や知識人を中心に強く唱えられたのが全面講和論である。彼らは、西側陣営のみとの講和は日本を冷戦の対立構造に深く巻き込み、再び戦争への道を歩ませる危険性があると危惧した。1948年に丸山眞男や南原繁らの進歩的文化人によって結成された平和問題談話会は、1950年に「講和問題についての声明」を発表し、全面講和の必要性を理論的に訴えて世論に大きな影響を与えた。また、野党の日本社会党や、1950年に結成された国内最大の労働組合組織である総評(日本労働組合総評議会)も全面講和論を強力に支持し、広範な国民的大衆運動を展開した。

平和四原則と日本社会党の分裂

1951年1月、日本社会党は党大会において、「全面講和」「中立堅持」「軍事基地提供反対」の平和三原則に「再軍備反対」を加えた平和四原則を採択し、吉田内閣の多数講和・日米同盟路線と真っ向から対立した。しかし、同年9月にサンフランシスコ平和条約および日米安全保障条約が締結されると、日本は多数講和による独立回復という現実的選択を下した。この結果を受け、日本社会党内では両条約に対する賛否をめぐって深刻な対立が生じ、平和条約には賛成し安保条約に反対する「右派」と、両条約に反対する「左派」へと分裂(1951年10月)する事態を招いた。

歴史的意義と未解決の外交課題

全面講和論は現実の政治的敗北に終わったものの、その思想は決して消滅しなかった。むしろ、その後の戦後日本における平和主義の定着や、憲法第9条を擁護する護憲運動、さらには安保闘争へと繋がる革新陣営の運動的基盤を形成する上で極めて重要な役割を果たした。また、サンフランシスコ講和会議で除外されたソ連や中国など社会主義圏との関係修復は、戦後日本の大きな外交課題として残された。この問題は、1956年の鳩山一郎内閣による日ソ共同宣言での国交回復や、1972年の田中角栄内閣による日中共同声明を待って、ようやく歴史的な決着を見ることとなったのである。

占領と講和: 戦後日本の出発

戦後日本の独立と安保体制の原点を、占領下の極めて緊迫した政治交渉の現場から浮き彫りにする、歴史の証言の決定版。

サンフランシスコ平和条約・日米安保条約 (中公文庫 S 13-7 シリーズ戦後史の証言-占領と講和- 7)

対日講和と安保条約の締結に至る苦渋の外交判断を、当時の当事者たちの証言から克明に読み解く、戦後史理解の必読書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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