百舌鳥古墳群 (もずこふんぐん)
【概説】
大阪府堺市一帯に分布する、古墳時代中期を代表する巨大古墳群。日本最大の前方後円墳である大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)をはじめとする大古墳が密集しており、古市古墳群とともに最盛期のヤマト王権の強大さを物語る重要な歴史的モニュメントである。
大阪平野に展開する巨大古墳群
百舌鳥古墳群は、現在の大阪府堺市内の東西約4キロメートル、南北約4キロメートルの範囲に広がる巨大な古墳群である。4世紀後半から6世紀後半にかけて築造されたとされ、かつては100基以上の古墳が存在したと言われているが、近代以降の都市開発などの影響で、現在は40基あまりが残存している。その最大の特徴は、大仙陵古墳や上石津ミサンザイ古墳といった、墳丘長が数百メートルに及ぶ巨大な前方後円墳が集中している点にある。これらは当時のヤマト王権の頂点に立つ大王(おおきみ)の墓と目されており、その圧倒的な規模と土木工事の動員力は、王権の権力がこの時期に飛躍的に拡大・強化されたことを明確に示している。
代表的な大王墓とその特徴
百舌鳥古墳群を象徴するのが、墳丘長約486メートルを誇り、日本最大、ひいては世界最大級の墳墓とも言われる大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)である。宮内庁により第16代仁徳天皇の陵墓として治定されているが、考古学的な築造年代等からは慎重な見方も存在する。また、百舌鳥古墳群で最古級かつ日本第3位の規模を持つ上石津ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵、墳丘長約365メートル)や、土師ニサンザイ古墳(墳丘長約290メートル)、田出井山古墳(伝反正天皇陵)など、巨大古墳が相次いで築造された。
これらの巨大古墳の周囲には、陪塚(ばいちょう)と呼ばれる小型の古墳が多数配置されている。陪塚は、大王に仕えた近臣の墓、あるいは武具や祭祀具などの大量の副葬品を納めるための専用の施設として機能しており、大王権力の威信を補完する重要な役割を担っていた。
「倭の五王」と東アジアの国際情勢
百舌鳥古墳群に巨大な王墓が次々と築造された5世紀という時代は、中国の歴史書『宋書』倭国伝に記される「倭の五王」(讃、珍、済、興、武)が中国の南朝(宋など)に遣使した時期とピタリと重なる。当時の東アジアでは、朝鮮半島において高句麗が南下政策をとり、百済や新羅との間で激しい緊張状態が続いていた。
ヤマト王権は、朝鮮半島南部の鉄資源や先進技術の獲得、そして半島における外交的・軍事的な優位性を確保するため、中国の王朝から「安東大将軍」などの称号(冊封)を得る必要があった。百舌鳥古墳群の威容は、当時の国際港湾であった難波津(なにわづ:現在の大阪湾)に出入りする外国の使節に対して、ヤマト王権の国力と大王の権威を視覚的に見せつけるという、極めて政治的かつ外交的なデモンストレーションの役割を担っていたと考えられている。
大和から河内・和泉への王権の移動
古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)におけるヤマト王権の中心的な巨大古墳群は、主に奈良盆地の南東部、大和国(現在の奈良県桜井市・天理市周辺)の大和柳本古墳群(箸墓古墳など)を中心に築かれていた。しかし、中期(5世紀)に入ると、その中心地は大阪平野の百舌鳥古墳群(和泉国)および古市古墳群(河内国:大阪府羽曳野市・藤井寺市)へと劇的に移動する。
この劇的な移動については、王権を構成する中心勢力そのものが交替したとする「河内王朝説」がかつて盛んに唱えられた。現在では、王朝の交替とまでは言えないまでも、ヤマト王権が水上交通を掌握し、瀬戸内海から大陸へと繋がる交通の要衝である「難波(なにわ)」を極めて重視するようになった結果であるとする見方が有力である。経済基盤や国際交流の拠点が、内陸の農業地帯から沿岸部へとシフトしたことをこの古墳群の立地は如実に物語っている。
出土品が語る軍事的性格と世界遺産登録
百舌鳥古墳群の陪塚などからは、大量の鉄製武器(刀剣類など)や武具(甲冑)、さらには大陸に由来する馬具などが多数出土している。これは、5世紀のヤマト王権が軍事的な色彩を強く帯びていたこと、そして渡来人を通じた最新の軍事・生産技術の導入が国家主導で積極的に行われていたことを示している。また、墳丘を飾る埴輪には、円筒埴輪だけでなく、家形、盾形、甲冑形、人物などの形象埴輪が用いられ、当時の祭祀のあり方を知る一級の史料となっている。
これらの歴史的・文化的な価値、とりわけ古代国家形成期における特異な墳墓文化の到達点を示す傑作としての意義が国際的にも高く評価され、2019年には近隣の古市古墳群とともに「百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群-」としてユネスコの世界文化遺産に登録された。