嵯峨天皇 (さがてんのう)
【概説】
桓武天皇の次男であり、第52代に数えられる平安時代初期の天皇。平城太上天皇の変(薬子の変)を鎮圧して権力基盤を固め、蔵人所や検非違使などの令外官の設置、および『弘仁格式』の編纂を通じて律令体制の実質的な強化を図った。
即位と平城太上天皇の変(薬子の変)
嵯峨天皇は桓武天皇の第2皇子として生まれ、809年に病に倒れた兄・平城天皇の譲位を受けて即位した。しかし、平城上皇が平城京へ移り、寵愛する藤原薬子やその兄・藤原仲成らとともに独自の政権を運営し始めると、平安京の天皇と平城京の上皇が並立する「二所朝廷」という深刻な対立状態に陥った。810年、平城上皇が平安京を廃して平城京へ遷都する詔を発すると、嵯峨天皇は迅速に兵を動かして仲成を射殺し、上皇の東国脱出を阻止した。結果として上皇は出家し、薬子は自害に追い込まれた。この平城太上天皇の変(薬子の変)を機に、嵯峨天皇は皇権を確固たるものにし、平安京を名実ともに唯一の都として定着させたのである。
令外官の創設と律令体制の再編
嵯峨天皇の治世における最大の政治的功績は、社会の実情に合わせて律令体制を補完・強化したことである。平城上皇との対立の過程で、天皇の機密文書を扱い、太政官を介さずに天皇の命令を迅速に伝達する秘書官として蔵人所(くろうどどころ)を設置し、初代の蔵人頭に藤原冬嗣らを任命した。さらに、平安京の治安維持と行政・裁判を担う検非違使(けびいし)を創設した。これらは大宝律令や養老律令の規定には存在しない令外官(りょうげのかん)であったが、次第に既存の官司の権限を吸収し、平安時代の政治運営の中核を担う強力な機関へと成長していった。
法制の整備と『弘仁格式』の編纂
社会の変容により、基本法である律令と現実の政治との間には徐々にズレが生じていた。天皇は、長年にわたり蓄積された法令の追加や修正(格)と、施行細則(式)を整理するため、藤原冬嗣らに編纂を命じ、820年に『弘仁格式』(こうにんきゃくしき)を完成させた。これは後の『貞観格式』『延喜格式』と合わせて三代格式と呼ばれるものの先駆けであり、法制面からの国家統治を再構築する重要な事業であった。また、嵯峨天皇の治世である818年には死刑が停止され、以後、保元の乱(1156年)に至るまで約340年間にわたり、国家による死刑が執行されないという日本独自の法慣行の起点となった点も特筆される。
弘仁文化の隆盛と嵯峨源氏の賜姓
嵯峨天皇の時代は、唐風の文化が深く重んじられた時期であり、この時期の文化は弘仁・貞観文化と呼ばれる。天皇自身が漢詩文や書道に極めて優れており、日本初の勅撰漢詩集である『凌雲集』を編纂させたほか、空海や橘逸勢とともに平安時代初期を代表する能書家として三筆の一人に数えられている。また、唐から帰国した空海に東寺を下賜し、天台宗の最澄とも交流を持つなど、平安仏教(密教)の発展を厚く庇護した。
一方で、天皇には多数の皇女・皇子がおり、彼らをすべて皇族として遇することは国家財政を圧迫する懸念があった。そのため、多数の皇子・皇女を臣籍降下させ、「源」の姓を与えた。これが嵯峨源氏(源融などが著名)の始まりであり、後の皇族賜姓の先例となった。嵯峨天皇の治世は、政治機構から法制、文化、そして皇室制度に至るまで、平安時代を通じて続く国家の基本骨格が完成した画期的な時代であったと言える。