加波山事件 (かばさんじけん)
【概説】
明治中期、急進的な自由党員らが茨城県の加波山に立てこもり、蜂起した武装テロ事件。福島事件などで過酷な民権派弾圧を行った「鬼県令」こと三島通庸の暗殺を企てたもので、政府による弾圧への強い反発が背景にあった。自由民権運動が武力闘争へと過激化した「激化事件」の代表例であり、この事件を機に自由党は解党へ追い込まれることとなった。
「鬼県令」三島通庸への怨嗟と福島事件の遺恨
1881年(明治14年)の国会開設の詔を受け、板垣退助らを中心に自由党が結成されるなど、自由民権運動は政党結成の動きへと発展した。しかし、大蔵卿・松方正義によるデフレ政策(松方財政)は深刻な農村不況をもたらし、生活に困窮した民衆や地方の自由党員の間に不満が鬱積していった。
こうした中、福島県令(のちに栃木県令も兼務)に就任した三島通庸は、強引な道路建設(会津三方道路)を進め、これに反対する民権派を容赦なく弾圧した。これが1882年の福島事件である。福島事件によって多くの自由党員が逮捕・投獄されたことで、自由党左派(急進派)の若者たちは、言論による合法的な民権運動に限界を感じ、政府高官の暗殺による直接行動(テロリズム)へと傾斜していった。
加波山での挙兵と計画の挫折
1884年(明治17年)9月、栃木県令を兼務していた三島通庸が宇都宮の新道開通式に出席することを知った、栃木・福島両県などの急進的自由党員ら16名は、三島の暗殺を計画した。爆弾を製造して待ち伏せたものの、開通式が延期されたことで計画は頓挫した。
資金や爆弾の露見を恐れた一味は、茨城県の加波山(筑波山の北方)に逃れて立てこもり、「自由の魁(さきがけ)」と書いた旗を掲げて挙兵した。彼らは「専制政府の転覆」を訴える檄文を配布し、警察官と銃撃戦を展開したが、近隣の軍や警察によって速やかに包囲・鎮圧された。逃亡したメンバーも次々と逮捕され、主要メンバーである鯉沼九八郎や富松正安ら7名が死刑に処された。
激化事件の限界と自由党の解党
加波山事件は、高田事件(1883年)や群馬事件(1884年)などと並び、自由民権運動が武力蜂起へと至った激化事件の一つである。事件に用いられた爆弾の殺傷力は低く、軍事的には極めて稚拙な蜂起であったが、政府側に与えた心理的衝撃は大きかった。
自由党幹部は、こうした地方党員の過激化をコントロールすることができず、また「暴徒の党」として政府から一掃されることを恐れた。その結果、加波山事件の直後である1884年10月、自由党は自ら解党を選択せざるを得なくなった。この事件は、過激化した武力闘争路線の限界を示すとともに、自由民権運動が一時的に衰退し、のちの議会開設に向けた合法的な路線(大同団結運動など)へと再編されていく契機となった。