レイテ沖海戦
【概説】
太平洋戦争末期の1944年10月、フィリピン周辺海域で日米両海軍が激突した史上最大の海戦。連合艦隊の主力を投入して臨んだ日本軍であったが、この大敗によって事実上戦闘組織としての機能を喪失した。また、日本軍による組織的な「神風特別攻撃隊」の体当たり攻撃(特攻)が初めて敢行された海戦としても知られる。
捷一号作戦の策定と日米の戦略的背景
1944年6月のマリアナ沖海戦に敗れ、絶対国防圏の一角であるサイパン島を失った日本軍は、窮地に立たされていた。フィリピンをアメリカ軍に奪取されれば、南方(東南アジア)からの石油をはじめとする重要資源の輸送路(シーレーン)が完全に遮断され、戦争の継続が不可能になることは明白であった。そのため大本営は、陸海軍の全力を挙げてフィリピンを防衛する決戦計画「捷一号(しょういちごう)作戦」を立案した。
しかし、すでにマリアナの戦いで空母機動部隊の航空兵力を失っていた日本海軍は、極めて変則的な作戦を余儀なくされた。それは、小沢治三郎中将率いる空母部隊(おとり部隊)が北方から米機動部隊を誘き寄せ、その隙に大和や武蔵を擁する栗田健男中将率いる主力艦隊(第一遊撃部隊)がレイテ湾に突入し、上陸作戦中の米軍輸送船団と護衛艦隊を撃滅するという悲壮なものであった。
連合艦隊の壊滅と「謎の反転」
10月23日、パラワン水道における米潜水艦の奇襲に始まった海戦は、シブヤン海、スリガオ海峡、エンガノ岬沖、サマール島沖の4つの海域で連鎖的に激しい戦闘が繰り広げられた。10月24日のシブヤン海海戦では、米軍機の執拗な集中攻撃を受け、日本海軍が誇る史上最大の戦艦「武蔵」が沈没した。
小沢艦隊の決死の誘致作戦により、米機動部隊を引き離すことには成功したものの、栗田艦隊はレイテ湾への突入を目前にした10月25日、サマール島沖で突如反転を決断した。これは後世に「栗田ターン(謎の反転)」と呼ばれ、大きな議論を呼ぶこととなる。この反転により、日本海軍は戦略目的であったレイテ湾への突入と敵輸送船団の撃滅を果たせぬまま退却し、空母4隻、戦艦3隻、重巡洋艦6隻など多数の主要艦艇を喪失して、連合艦隊は事実上壊滅した。
「神風特別攻撃隊」の誕生とその歴史的意味
レイテ沖海戦は、日本軍が組織的な体当たり戦術である「神風特別攻撃隊(特攻)」を初めて導入した戦闘でもある。もはや通常の航空攻撃では圧倒的な防空網を持つ米艦隊に打撃を与えられないと判断した第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将の発案により、零式艦上戦闘機に250キロ爆弾を搭載して突入する特攻隊が結成された。
10月25日、関行男大尉ら率いる敷島隊などが米護衛空母「セント・ロー」を撃沈するなどの戦果を上げた。この一時的な戦術的成功は、軍上層部によって美化され、その後の沖縄戦などで大規模かつ常態的に特攻が繰り返される悲劇の始まりとなった。レイテ沖海戦での敗北により、フィリピンの制海権・制空権は完全に米軍に掌握され、日本の敗戦への道は決定的なものとなった。