サンフランシスコ(講和会議)
【概説】
1951年9月、日本が主権を回復するための平和条約が結ばれたアメリカの都市、およびそこで開催された国際会議のこと。東西冷戦の激化を背景に、ソ連などの東側諸国が署名しない「多数講和(単独講和)」の形式で行われた。同時に日米安全保障条約も締結され、その後の戦後日本の政治・外交の基本枠組みを決定づけた極めて重要な出来事である。
冷戦の激化とアメリカの対日政策転換
第二次世界大戦での敗戦後、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に置かれていた。当初、アメリカは日本の徹底した非軍事化と民主化を推進していたが、1940年代後半からアメリカとソ連を中心とする東西冷戦が激化し始める。1949年の中華人民共和国の成立、さらには1950年の朝鮮戦争の勃発により、アメリカは極東における戦略の抜本的な見直しを迫られた。
アメリカは日本に対する占領政策を転換し(いわゆる逆コース)、日本を共産主義陣営に対する「反共の防波堤」として位置づけ、早期に独立させて西側陣営に組み込む方針を固めた。アメリカ大統領特使のジョン・フォスター・ダレスを中心に講和に向けた外交交渉が急ピッチで進められることとなった。
全面講和と多数講和をめぐる国内の対立
講和会議の開催が現実味を帯びるなか、日本国内では講和のあり方をめぐって世論が激しく二分された。ソ連や中国を含むすべての交戦国と講和条約を結ぶべきだとする全面講和論と、自由主義陣営を中心とした講和に応じる国々と早期に結ぶべきだとする多数講和(単独講和)論の対立である。
日本社会党の左派グループや労働組合の全国組織である総評、さらには平和問題談話会に集った進歩的知識人などは、非武装中立と全面講和を強く主張した。しかし、当時の吉田茂首相は、冷戦下で社会主義国を含めた全面講和を実現することは事実上不可能であると判断し、早期の主権回復と経済復興を最優先して多数講和の道を選択した。
講和会議の経過と平和条約の調印
1951年9月4日、アメリカのサンフランシスコにあるオペラハウスにて講和会議が開幕した。会議には52カ国が参加したが、当時の複雑な国際情勢を反映し、内戦を経た中国(中華民国・中華人民共和国の双方)は招請されず、インドやビルマ(現ミャンマー)は条約案への不満から参加を辞退した。
会議に参加したソ連、ポーランド、チェコスロバキアの東側3カ国は、条約内容がアメリカ主導の軍事同盟的色彩を帯びているとして署名を拒否した。その結果、9月8日に日本を含む49カ国の全権代表によってサンフランシスコ平和条約が調印された。この条約の効力は翌1952年4月28日に発生し、日本は7年弱に及んだ被占領時代を終えて独立を回復した。また、条約により朝鮮半島の独立承認、台湾・澎湖諸島・千島列島・南樺太の権利放棄などが確定したが、領土問題のいくつかは今日に至るまで未解決のままである。
日米安全保障条約の同時締結と「サンフランシスコ体制」
サンフランシスコ平和条約の調印式が行われた同日の午後、サンフランシスコ市内のアメリカ軍基地(プレシディオ)において、日本とアメリカの二国間で日米安全保障条約(旧安保条約)が密かに署名された。これは、日本の独立に伴う防衛力の空白を埋めるという名目で、独立後も引き続きアメリカ軍(在日米軍)の駐留と基地の継続使用を認めるものであった。
この「平和条約による主権回復」と「安保条約による対米軍事協力」の二つをセットにする形での独立は、戦後日本が西側陣営の強力な一員として国際社会に復帰することを意味した。この政治的・軍事的な枠組みは「サンフランシスコ体制」と呼ばれ、日本の安全保障や外交政策の根幹として、現代にいたるまで決定的な影響を与え続けている。