粟津の戦い (あわづのたたかい)
【概説】
1184年(寿永3年/治承8年)正月、近江国粟津において、源頼朝が派遣した源範頼・源義経の軍勢と、孤立した木曾義仲(源義仲)の軍勢との間で行われた決戦。
この戦いで義仲が敗死したことにより源氏内部の抗争は決着し、頼朝が平氏追討と武家政権樹立に向けた主導権を完全に掌握する契機となった。
合戦への背景:義仲の上洛と後白河法皇との対立
1183年(寿永2年)、北陸で平氏の大軍を撃破した木曾義仲は、平氏一門を都落ちに追い込み、華々しく入京を果たした。しかし、長引く飢饉(養和の飢饉)で困窮していた京都に大量の軍勢が駐留したため、兵糧調達のための略奪が横行し、都の治安は著しく悪化して貴族や民衆の反感を買った。
さらに、朝廷の権力維持を図る後白河法皇と義仲との関係は急速に悪化していった。法皇は東国で着実に勢力を広げていた源頼朝と手を結び、寿永二年十月宣旨を下して頼朝の上洛を促した。これに危機感を募らせた義仲は、1183年11月に法住寺合戦を起こして後白河法皇を幽閉し、自らは征夷大将軍(征東大将軍とも)に就任して強引に政権を掌握した。しかし、この強硬策は義仲を政治的な孤立へと追い込み、頼朝に「法皇救出」という大義名分を与える結果となった。
宇治・瀬田の突破と粟津における激闘
1184年(寿永3年)正月、頼朝の命を受けた源範頼・源義経率いる数万の鎌倉軍が京都へ進発した。義仲軍は宇治と瀬田の二手に分かれて防衛線を敷いたものの、兵力で圧倒的に劣勢であり、義経による宇治川の突破や範頼による瀬田の攻略を許して総崩れとなった。
京都を脱出した義仲は、わずかな手勢とともに東国へ逃れ、腹心の今井兼平らと合流すべく近江国粟津(現在の滋賀県大津市)を目指した。合流を果たしたものの、すでに付き従う兵は数騎にまで激減していた。義仲軍は追撃してきた範頼軍の圧倒的な大軍を相手に奮戦を繰り広げた。軍記物語『平家物語』では、女武者として名高い巴御前が敵の首を討ち取って落ち延びる場面や、今井兼平が主君・義仲に自害を促す悲壮なやり取りが印象的に描かれている。
義仲の最期と平氏追討への展開
義仲は自害のために松原へ馬を走らせたが、ぬかるんだ深田(泥沼)に馬の足を取られて身動きが取れなくなったところを、追撃してきた武士の放った矢に眉間を射抜かれて討死した。主君の討死を見届けた今井兼平も、太刀の先を口に含んで馬から飛び降り、壮絶な自害を遂げた。
粟津の戦いによって木曾義仲の勢力は完全に壊滅し、源氏内部の主導権争いは頼朝側の勝利で終結した。後白河法皇を無事に救出した鎌倉軍は朝廷の絶大な信頼を獲得し、義仲討伐の余勢を駆って西国の平氏追討へと直ちに舵を切ることとなる。この直後に展開される一ノ谷の戦いや屋島の戦い、そして平氏滅亡に至る一連の軍事行動の前提を整えた戦いとして、歴史的に重要な節目を成している。