北条時政
【概説】
伊豆国の在庁官人から身を起こし、源頼朝の舅として鎌倉幕府の創設に多大な貢献をした武将。頼朝の死後は有力御家人を次々と排除して権力を掌握し、幕府の初代執権(政所別当)に就任した。のちに後妻の牧の方と結んで権力の独占を図ったが、実子の北条政子や義時と対立して失脚し、政治舞台から姿を消した。
伊豆の小豪族から源頼朝の舅へ
北条時政は、伊豆国田方郡北条を本拠とする在庁官人(国衙の実務を担う地方役人)の家系に生まれた。平治の乱(1159年)で敗れ、伊豆の蛭ヶ小島に流罪となっていた源頼朝の監視役を務めていたが、長女の北条政子が頼朝と結ばれたことを機に、その関係は一変する。時政は頼朝の舅として、平氏政権打倒の強力な支援者となった。
1180年(治承4年)、以仁王の令旨を受けた頼朝が挙兵すると、時政も一族を率いてこれに従った。石橋山の戦いで大敗を喫し、長男の宗時を失うなどの苦難を味わいながらも、甲斐源氏の武田信義らと同盟を結ぶなど外交面でも奔走し、頼朝の関東平定と武家政権の基盤作りに尽力した。
守護・地頭の設置と京都守護
時政の政治的才能が最も発揮されたのが、1185年(文治元年)の平氏滅亡後の対朝廷交渉である。頼朝と対立した源義経が後白河法皇から頼朝追討の宣旨を引き出すと、時政は頼朝の代官として大軍を率いて上洛した。時政は朝廷に強硬な姿勢で迫り、義経・行家追討を名目として、諸国への守護・地頭の設置と兵粮米の徴収権を認めさせる「文治の勅許」を獲得した。
これは、鎌倉幕府の支配権が東国から全国へと及ぶ決定的な契機となる極めて重要な歴史的転換点であった。また、時政は初代の京都守護として京都の治安維持や朝廷との連絡調整にあたり、幕府の権威を畿内・西国にまで浸透させる足がかりを築いた。
頼朝死後の権力闘争と初代執権への就任
1199年(建久10年)に頼朝が急死し、若き源頼家が二代将軍に就任すると、時政ら有力御家人による十三人の合議制が敷かれた。これは将軍の独裁を抑制するものであったが、同時に御家人間の苛烈な権力闘争の幕開けでもあった。時政は自らの権力基盤を固めるため、頼朝の側近であった梶原景時を追放・討伐し(梶原景時の変)、続いて1203年(建仁3年)には、頼家の外戚として台頭していた比企能員を謀殺して比企一族を滅ぼした(比企能員の変)。
この事件に伴い、時政は将軍頼家を修善寺に幽閉して後に暗殺し、頼家の弟である12歳の源実朝を三代将軍に擁立した。実朝の外祖父となった時政は、幕府の一般政務を統括する政所別当に就任し、実質的な最高権力者となった。これが後世にいう初代執権の始まりであり、北条氏による幕府支配の基礎がここに確立されたのである。
牧氏事件と晩年の失脚
権力の絶頂に達した時政であったが、晩年は後妻の牧の方の影響力を強く受けるようになった。1205年(元久2年)、牧の方の娘婿である平賀朝雅を重用しようと企図し、武蔵国で強い勢力を持っていた有力御家人の畠山重忠に謀反の罪を被せて討伐した(畠山重忠の乱)。重忠は人望が厚く、この強引な粛清は多くの御家人の反感を結集させることとなった。
さらに同年、時政と牧の方は将軍実朝を廃し、平賀朝雅を新将軍に擁立しようとするクーデター(牧氏事件)を企てた。しかし、この無謀な計画は、幕府の安定を第一に考える実子の北条政子や北条義時らの猛反発を招いた。政子・義時姉弟の迅速な対応により実朝の身柄は保護され、大半の御家人も義時側についたため、時政の陰謀は完全に失敗した。
結果として時政は出家を余儀なくされ、故郷である伊豆国の北条へ追放された。鎌倉幕府の創設期において比類なき功績を残した初代執権は、自らの権力欲によって実子たちに放逐されるという末路を辿り、以後二度と政治の表舞台に立つことなく、1215年(建保3年)に78歳でその生涯を閉じた。