上洛
【概説】
地方の武将が軍勢を率いて、天皇や室町幕府の将軍が所在する政治・文化の中心である京都へ入ること。特に戦国時代から安土桃山時代にかけては、全国的な覇権を確立するための最重要課題として位置づけられた。有力な戦国大名たちは、上洛を果たすことで中央政界での大義名分を得ようと熾烈な争いを繰り広げた。
中国の古都に由来する言葉の成り立ち
もともと日本の首都である平安京は、中国(唐)の都に倣って建設された。その際、西側の右京を「長安」、東側の左京を「洛陽」と呼んで雅称としたが、湿地帯の多かった右京は次第に衰退し、左京のみが市街地として発展した。そのため、やがて京都全体を指して「洛(洛中)」と呼ぶようになり、地方から京都へ上ることを「上洛」や「入洛」と称するようになった。
中世以前においても、地方の武士が京都の大番役などの任務のために都へ赴くことを上洛と呼んでいた。しかし、室町時代後期から戦国時代にかけては、単なる上京ではなく、大軍を率いて中央の政治権力を掌握するための軍事行動という意味合いを強く帯びるようになった。
戦国時代における「上洛」の政治的・軍事的意義
応仁の乱以降、室町幕府の権威は失墜し、全国各地で戦国大名が割拠する下克上の時代が到来した。しかし、天皇や将軍といった旧来の権威が完全に消滅したわけではなく、むしろ地方大名にとっては、自らの領国支配を正当化し、他国への侵攻を有利に進めるための大義名分として極めて重要であった。
武将が軍勢を率いて上洛し、天皇の保護や将軍の擁立・復権を果たすことは、自らが「天下(=畿内を中心とした中央政界)」の庇護者として認知されることを意味した。さらに、当時の京都は日本最大の経済都市であり、比叡山延暦寺や本願寺をはじめとする宗教的権威の集積地でもあった。この地を軍事力で制圧することは、全国の覇権(天下人)へ至る絶対条件であった。しかし、京都へ至る道中には多くの敵対勢力が存在し、これを打ち破る圧倒的な武力と、長征を支える莫大な経済力が不可欠であったため、上洛の成功は至難の業であった。
織田信長の上洛と天下布武の展開
戦国時代において、この上洛を最も劇的かつ決定的な形で成功させたのが織田信長である。1568年、信長は越前朝倉氏のもとに身を寄せていた足利義昭を奉じ、大軍を率いて岐阜を出発した。近江の六角氏などを迅速に打ち破って上洛を果たすと、義昭を第15代将軍に就任させた。
信長はこの上洛を通じて、将軍を擁する正統な権力者としての立場を確立した。当初は室町幕府を再興する形をとったものの、実質的な主導権は武力と財力に勝る信長が握っていた。やがて将軍・義昭と対立した信長は、1573年に義昭を京都から追放し、事実上室町幕府を滅亡させた。これにより、信長は既存の権威を乗り越えた単独の天下人として君臨し、時代は戦国時代から安土桃山時代(織豊期)へと大きく転換することになる。
上洛の夢に散った戦国大名たち
信長による上洛の成功は歴史の大きな転換点となったが、それ以前や同時期にも、多くの有力大名が上洛を目指して散っていった。1508年には周防の大内義興が前将軍・足利義稙を擁して上洛に成功し、一時的に中央政界を牛耳った例がある。
一方で、1560年に駿河の今川義元は尾張へ侵攻した際、桶狭間の戦いで信長に討ち取られた(近年の研究では、義元の行動は上洛ではなく尾張制圧が目的であったとする説も有力である)。また、信長最大の脅威であった甲斐の武田信玄も、1572年に上洛を目指して西上作戦を開始し、三方ヶ原の戦いで徳川家康を大破したが、その途上で病に倒れ急死した。越後の上杉謙信も上洛の意志を抱いていたとされるが、ついに果たすことはできなかった。
このように、「上洛」は戦国大名たちにとって最高の栄誉であり悲願であったと同時に、彼らの命運を分ける最も過酷な試練であったと言える。