景山(福田)英子 (かげやま ひでこ)
【概説】
明治から大正にかけて活動した女性民権運動家、社会運動家。自由民権運動の激化期に大井憲太郎らに共鳴して大阪事件に関与し、「東洋のジャンヌ・ダルク」と称された。後年には自伝『妾の半生』を著し、社会主義運動や女性解放運動の先駆者として足跡を残した人物である。
自由民権運動への傾倒と「大阪事件」
景山英子は備前岡山藩の下級武士の家に生まれた。早くから学問に親しみ、地元の岡山で私塾を開くなど知的な活動を開始する。折しも高揚していた自由民権運動に強い影響を受け、民権派の演説会に参加するなど政治的覚醒を遂げた。国会開設運動や不平等条約改正を求める運動が全国で激化するなか、英子は上京して急進的な民権派の指導者である大井憲太郎と出会い、その思想に深く共鳴した。
1885年(明治18年)、大井らは朝鮮の独立党(開化派)を支援して現地でクーデターを起こさせ、それを通じて日本国内の改革を促そうとする計画を画策した。これが大阪事件である。英子はこの計画に深く賛同し、爆弾の運搬や資金調達など、極めて危険な実働部隊の役割を積極的に担った。計画は実行直前に発覚し、英子も逮捕された。公判での毅然とした態度や、女性が国家規模のクーデター計画に加担していたという事実は世間に大きな衝撃を与え、彼女は「東洋のジャンヌ・ダルク」と呼び習わされるようになった。
『妾の半生』の上梓と女性解放への道
1889年(明治22年)、大日本帝国憲法発布に伴う恩赦によって出獄した英子は、思想的盟友であり私的なパートナーでもあった大井憲太郎との関係を再開するが、大井の不実な女性関係や政治的変節に絶望し、訣別を選択した。その後、民権運動家の福田友作と結婚(のちに死別)し、以後は「福田英子」の名でも知られるようになる。
1904年(明治37年)、英子は自伝『妾(わらわ)の半生』を出版した。この書物は、男尊女卑の強い明治社会において、女性運動家としての政治的闘争だけでなく、大井との間に生じた私生活の苦悩や葛藤を赤裸々に綴ったものであり、近代日本における女性の自己告白文学・女性解放文学の先駆的作品となった。英子は、女性が政治的・経済的に自立しない限り真の解放はあり得ないと確信するに至ったのである。
社会主義運動への接近と晩年の闘い
日露戦争前夜、英子は幸徳秋水や堺利彦らが結成した平民社に接近し、非戦論を支持して社会主義運動へと歩みを進めた。1907年には、女性の政治的・社会的権利の獲得を目指す機関誌『世界婦人』を創刊し、主筆として健筆を振るった。同誌は治安警察法第5条(女性の政治結社・集会への参加禁止)の改正運動を強力に推進し、のちの新婦人協会などによる女性参政権運動の土台を築くこととなった。
1910年の大逆事件(幸徳事件)によって社会主義運動が「冬の時代」を迎えると、英子も厳しい警察の監視下に置かれたが、生涯にわたって弱者救済や女性の地位向上のための活動を諦めなかった。晩年は、大正デモクラシーの潮流の中で新たな世代の女性解放運動家たちに精神的支柱として仰がれながら、1927年(昭和2年)にその波乱に満ちた生涯を閉じた。