備荒作物

飢饉などの非常時に備えて栽培される、環境の変化に強い作物(サツマイモなど)を総称して何というか?
カテゴリ:
重要度
★★

備荒作物 (びこうさくもつ)

江戸時代

【概説】
江戸時代において、天候不順や災害による飢饉に備え、主食である米の代用として栽培が推奨された栽培容易な作物の総称。サツマイモ(甘藷)やジャガイモ(馬鈴薯)などが代表的であり、寒冷地や痩せ地でも生育する強い生命力を持つ。幕府や諸藩の救荒農政において重要な役割を果たし、多くの人命を救うこととなった。

頻発する飢饉と備荒作物の歴史的背景

江戸時代は、気候の寒冷化や浅間山の噴火などに起因する大飢饉がしばしば発生した時代であった。特に享保・天明・天保の「江戸三大飢饉」においては、主食である米の凶作が深刻な食糧不足を招き、全国で大量の餓死者や農民一揆を引き起こした。当時の農業技術は米本位制(石高制)に強く依存していたが、米は寒冷や長雨、干ばつ、害虫の被害を受けやすい極めて繊細な作物であった。このため、米が収穫できない不測の事態に備え、劣悪な環境でも安定して収穫できる備荒作物(救荒作物とも呼ばれる)の確保が、幕府や諸藩にとって焦眉の急となった。

備荒作物に求められた条件は、乾燥や寒冷に強く、肥料が少なくて済み、短期間で生育し、さらに貯蔵性に優れていることである。それまでの伝統的な備荒作物としては、生育期間の短い蕎麦(ソバ)や、稗(ヒエ)、粟(アワ)などの雑穀類が中心であったが、近世中期以降は海外から伝来した根菜類がその主役に躍り出ることとなった。

「甘藷先生」青木昆陽とサツマイモの普及

備荒作物の歴史において最も画期的な出来事となったのが、サツマイモ(甘藷)の組織的な栽培推奨である。サツマイモは17世紀初頭に中国(明)から琉球・薩摩を経由して日本に伝来した。1732年の享保の飢饉で西日本が甚大な被害を受けた際、サツマイモをいち早く導入していた薩摩藩などでは餓死者がほとんど出なかったことが注目された。

これを受け、8代将軍徳川吉宗は儒学者・蘭学者の青木昆陽に甘藷の栽培研究を命じた。昆陽は1735年に『番薯考(ばんしょこう)』を著してその有用性と栽培法を説き、江戸の小石川薬園や下総国(千葉県)で試作に成功した。昆陽の尽力によりサツマイモ栽培は関東地方から東日本へと広まり、のちの天明や天保の飢饉において多くの庶民の命を救うこととなった。昆陽はその功績から、後世に「甘藷先生」と仰がれるようになった。

地域特性に応じた多様な救荒対策

サツマイモは温暖な気候を好むため、関東以北の寒冷地では栽培が難しかった。これに対して、東北地方や甲信越などの高冷地で救荒作物として普及したのが、北方ルート(千島経由)や長崎経由で伝来したジャガイモ(馬鈴薯)であった。例えば、信濃国(長野県)の代官であった中井清太夫は、ジャガイモの栽培を奨励して地域の飢饉対策に大きな成果を上げ、現地で神のように慕われた。

また、備荒作物の普及だけでなく、これらを加工・保存する技術も発達した。例えば、コンニャクイモの粉末化による長期保存や、葛粉の利用などが進められた。江戸時代後期には、米沢藩の上杉鷹山が救荒制度を整えるとともに、飢饉時の非常食や食用可能な野生植物をまとめたマニュアル『かてもの』を編纂・配布するなど、備荒作物・植物の知識は藩政改革の重要事項としても位置づけられていった。

飢饉の社会史

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江戸時代の飢饉 (歴史公論ブックス 12)

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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