甘藷 (かんしょ)
【概説】
サツマイモ(薩摩芋)の漢名。近世初頭に中国から琉球・九州を経て日本に伝来し、江戸中期以降に飢饉対策の備荒作物(救荒作物)として全国へ普及した農作物。
甘藷の日本伝来と「サツマイモ」の定着
甘藷は熱帯アメリカを原産地とし、大航海時代にヨーロッパ人によってアジアへ持ち込まれた。日本への伝来は1605年(慶長10年)、琉球(沖縄)の進貢船の事務職であった野国総管が中国の明(福建省)から鉢植えの苗を持ち帰ったことが契機とされる。その後、琉球の豪族であった儀間真常が栽培技術を確立し、琉球全土に普及させた。
17世紀後半には、薩摩藩(鹿児島県)へ伝来して同藩の重要な農作物となった。18世紀初頭には、薩摩の商人であった前田利右衛門らによって栽培が広がり、やがて薩摩から西日本へと伝播した。このため、他地域では「薩摩から伝わった芋」という意味を込めてサツマイモと呼ばれるようになった。甘藷は、やせた土地や乾燥地でも生育し、台風などの風水害にも強いという、極めて優れた農業特性を持っていた。
享保の改革と青木昆陽による関東普及
甘藷が全国規模で重要な位置を占めるようになるのは、18世紀前半の江戸幕府8代将軍徳川吉宗の治世である。1732年(享保17年)、冷害と虫害によって西日本一帯が深刻な飢餓に陥った享保の飢饉を経験した吉宗は、米に代わる救荒作物の導入を模索した。
この動きを背景に、儒学者であり蘭学の先駆者でもあった青木昆陽は、1735年(享保20年)に甘藷栽培の有用性を説いた書物『蕃薯考(ばんしょこう)』を著した。これを読んだ吉宗は昆陽を登用し、江戸の小石川薬園や吹上御庭、さらに下総国幕張(千葉県)などの幕府領で試験栽培を行わせた。昆陽自らが栽培方法を指導・伝授したことにより、それまで温暖な西日本に限定されていた甘藷栽培が、東日本(関東地方)にも定着する基礎が築かれた。
救荒作物としての役割と同時代への影響
東日本での栽培成功により、甘藷は「備荒作物(救荒作物)」としての地位を不動のものとした。江戸時代中後期に発生した天明の飢饉(1780年代)や天保の飢饉(1830年代)において、コメの収穫が皆無に近い状態となった地域であっても、甘藷を多く栽培していた関東の一部地域や西南日本(特に伊予国の大三島など、下見吉十郎が普及に努めた瀬戸内海の諸島)では、飢えによる餓死者をほとんど出さずに済んだという記録が残されている。
また、甘藷は主食の代用にとどまらず、江戸時代後半の産業発展にも寄与した。やがて甘藷は、澱粉(でんぷん)原料や、酒・みりんの原料として加工され、商品作物としての側面も持つようになった。このように甘藷の普及は、単に人々の飢えを凌ぐだけでなく、農村の経済構造を支え、日本の人口維持と近世社会の安定に多大な貢献を果たしたのである。