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  • 右兵衛府

    右兵衛府 (うひょうえふ)

    759年〜

    【概説】
    律令制下における宮廷警備組織である五衛府(のちに六衛府)の一つ。左兵衛府とともに、天皇の直接の護衛や行幸の供奉(ぐぶ)を担った右側の軍事部門である。

    律令官制における兵衛府の誕生と「左右」分離

    右兵衛府の起源は、大宝律令(701年)において設置された「兵衛府(ひょうえふ)」にさかのぼる。当初は一つの組織であったが、奈良時代後期の天平宝字3年(759年)、藤原仲麻呂(恵美押勝)による官制改革の一環として「左右兵衛府」へと分割された。これにより、天皇直属の警護部隊としての機動性と組織力が高められることとなった。

    この組織を構成する「兵衛」は、一般の百姓から徴発される衛士(えじ)とは異なり、主に地方豪族である郡司の子弟や、都の中下級貴族の次男・三男などから選抜された。彼らは武芸に秀でていただけでなく、将来の官僚候補としてのエリート層でもあり、宮廷奉仕を通じて中央の政治秩序に組み込まれていった。この点が、単なる警備兵ではない兵衛府の大きな歴史的特徴である。

    右兵衛府の職掌と組織構造

    右兵衛府は、左兵衛府とともに天皇の身辺警護を主たる任務とした。具体的には、内裏(御所)の巡検、天皇の移動である「行幸」の際の供奉や警備、さらには宮中の諸門(特に右側の区域)の開閉や出入管理を担当した。また、朝廷の重要な儀式においては、威儀を正して整列し、天皇の権威を誇示する役割も果たした。

    組織のトップは四等官の長官である「右兵衛督(うひょうえのかみ)」(従五位上、のちに権限の拡大に伴い従四位下相当)であり、これを補佐する佐(すけ)、実務を統括する大尉(だいつい)・少尉(しょうつい)、書記官である大志(だいさ)・少志(しょうさ)らが配置された。さらに、兵衛たちの健康管理を行うための「医師」なども所属しており、高度に組織化された部隊として機能していた。

    平安中期における六衛府体制への再編と形骸化

    平安時代初期の弘仁2年(811年)、嵯峨天皇の治世において、従来の衛府は「左右近衛府」「左右兵衛府」「左右衛門府」の六衛府(ろくえふ)体制へと再編された。これにより右兵衛府の役割はより専門化されたが、平安時代中期以降、律令国家の変質(王朝国家体制への移行)に伴ってその実質的な軍事機能は徐々に形骸化していくこととなる。

    治安維持の主導権が新設された検非違使(けびいし)へと移り、さらに地方で武装化した「武士」が独自の軍事力を持つようになると、右兵衛府は実戦部隊としての役目を終えた。しかし、その官職(「右兵衛督」や「右兵衛佐」など)は高位貴族の家格を示す名誉職として、あるいは後代には武士が朝廷からの公認(権威付け)を得るための「武家官位」(源頼朝が「右兵衛佐」に任じられ「佐殿(すけどの)」と呼ばれたのが代表例)として、形を変えて歴史の中に残り続けた。

  • 左兵衛府

    左兵衛府 (さひょうえふ)

    701年〜

    【概説】
    律令制下の二官八省五衛府体制において、宮城の警備や天皇の護衛を司った軍事組織。武芸に秀でた地方豪族の子弟(兵衛)によって組織され、天皇の直接の警護や行幸の供奉を行うなど、宮廷防衛の核心を担った。

    律令官制における「衛府」の整備と左兵衛府

    大宝律令(701年)および養老律令(718年)の制定により、古代日本の国家組織は法的な整備を見た。このなかで、天皇の居住する宮城を護衛するために「五衛府(のちに六衛府)」と呼ばれる軍事組織が編成された。左兵衛府は、右兵衛府と対をなす組織としてこの一角を占めた。宮城の守護において、外側の警備を担う衛門府や衛士府に対し、兵衛府は天皇の身辺に近い内廷の警備を担当する、より直属性の高い精鋭部隊としての性格を有していた。

    「兵衛」の選出とその政治的意義

    左兵衛府を構成する「兵衛」は、一般の農民から徴兵された衛士(えじ)とは異なり、地方の郡司などの有力豪族の子弟(中流以上の身分)から、武芸、特に弓馬の術に優れた者が選抜された。これには、地方豪族の子弟を宮廷に人質として留め置くことで地方の反乱を抑止するとともに、天皇への忠誠心を養わせるという高度な政治的目的があった。彼らは天皇の乗り物の警備(供奉)や儀式での整列など、華々しい宮廷行事において天皇の威光を演出する役割も果たした。唐の制度に倣い「左」が「右」の上位に置かれたため、左兵衛府は右兵衛府よりも格上とされた。

    武士の台頭と官職の形骸化

    平安時代中期以降、国衙軍制の変容や律令体制の崩壊に伴い、従来の郡司層を基盤とした兵衛制度は徐々に形骸化していった。実際の治安維持や警備の任務は、新たに組織された検非違使や、武芸を専門とする「武士(もののふ)」へと移り変わった。しかし、左兵衛府の官職である「左兵衛督(かみ)」や「左兵衛佐(すけ)」などの職名は、武門の誉れ高い名誉職として残り続けた。のちの鎌倉時代や室町時代の武士たちにとって、兵衛府の官職を得ることは一流の武家としての格式を示すステータスシンボルとなり、受領名(官途名)として広く用いられることとなった。

  • 山背(山城)

    山背(山城) (やましろ)

    【概説】
    古代の日本における令制国(五畿八道)の一つで、現在の京都府南部に位置する地域。大和国(奈良県)から見て「山の背後」にあることから古くは「山背」と表記されたが、延暦13年(794年)の平安京遷都を機に「山城」へと改称され、以後明治維新に至るまで日本の政治・文化の中心地として機能した。

    渡来系氏族による開発と「山背」の地勢

    飛鳥時代より前、この地域は奈良盆地(大和国)から見て奈良山の北方、すなわち「山の背後」に位置することから山背(または山代)と表記されていた。起伏に富んだ盆地であり、鴨川や桂川、宇治川などの豊かな水系に恵まれていた反面、度重なる水害に悩まされる未開の地でもあった。

    この地の開発に大きく貢献したのが、秦氏をはじめとする渡来系氏族である。秦氏は葛野川(現在の桂川)に大堰(大井堰)を築いて治水と灌漑を行い、山背盆地を豊かな水田地帯へと変貌させた。さらに養蚕や機織り、醸造などの先進技術をもたらし、この地に強力な経済基盤を確立した。秦氏が氏寺として建立した広隆寺(太秦)などは、当時の山背における高度な文化水準を象徴している。この渡来系氏族による開発が、のちの長岡京や平安京の造営を可能にする物質的・技術的基盤となったのである。

    飛鳥・奈良時代の政治的動乱と「山背」

    飛鳥時代に入ると、山背は中央政治の表舞台と深く関わるようになる。聖徳太子(厩戸皇子)の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、その名の通り山背地方に強い地盤を持っていたとされている。皇位継承をめぐり、蘇我入鹿の軍勢によって山背大兄王と上宮王家(聖徳太子の一族)が斑鳩寺で滅ぼされた山背大兄王の変(643年)は、のちの乙巳の変(645年)を引き起こす直接的な契機となった。

    奈良時代には、聖武天皇が平城京からの遷都を繰り返す中で、一時的に山背国相楽郡に恭仁京(くにきょう、740年〜744年)が置かれた。このように、大和国のすぐ北隣に位置する山背は、政変の避難先や新たな政治的拠点の候補地として、常に中央権力から注目される戦略的要衝であった。

    平安京遷都と「山背」から「山城」への改称

    奈良時代末期から平安時代初期にかけて、十代目の天皇である桓武天皇は、肥大化した仏教勢力の影響が強い平城京からの脱却を図った。まず延暦3年(784年)に山背国の乙訓郡へ長岡京を造営し、次いで延暦13年(794年)に葛野郡の地に平安京を創設して遷都を完了した。

    この平安京遷都の際、桓武天皇は「この国は山河が襟を帯びて自然に関をなす険要の地であり、新京を『山城』と名付け、山背国を改め山城国とする」という詔を発した。これは、従来の「大和から見て山の後ろ」という従属的な意味を持つ「山背」から、都を護る「山を城壁とする頑強な国」という主体的・軍事的な意味を持つ山城への大転換であった。これ以降、山城国は「都のある国」として、日本の政治、経済、文化の頂点に君臨し続けることとなる。

  • 大和

    大和 (やまと)

    【概説】
    五畿内の一つに数えられ、現在の奈良県全域にあたる令制国。ヤマト王権の発祥地であり、飛鳥や藤原京、平城京など歴代の宮都が置かれた古代日本の政治・文化の中心地域である。日本という国家の形成過程において極めて重要な役割を果たし、のちに「日本」そのものを指す言葉としても用いられるようになった。

    ヤマト王権の発祥と初期国家の形成

    もともと「ヤマト」という地名は、現在の奈良盆地東南部(桜井市や天理市周辺)一帯を指す局地的な呼称であったと考えられている。3世紀から4世紀にかけて、この地域を基盤とする有力な政治勢力が形成され、のちにヤマト王権(大和朝廷)へと成長していった。この地には纏向(まきむく)遺跡などの初期国家の萌芽を示す遺跡や、箸墓古墳をはじめとする巨大な前方後円墳が集中しており、列島各地の豪族を束ねる政治的中心地としての地位を確立していった過程をうかがうことができる。

    飛鳥時代における政治と文化の舞台

    飛鳥時代に入ると、大和の政治的機能は奈良盆地南部の飛鳥地方(現在の明日香村周辺)に集中するようになった。推古天皇の豊浦宮や小墾田宮をはじめ、歴代の天皇は次々と飛鳥周辺に宮を営んだ。蘇我氏の台頭と滅亡(乙巳の変)、大化の改新、そして壬申の乱といった古代史を大きく動かす歴史的事件は、すべてこの大和の地を主舞台として展開された。また、日本最初の本格的な伽藍配置を持つ飛鳥寺や、聖徳太子ゆかりの法隆寺などが建立され、大陸から伝来した仏教を中心とする飛鳥文化白鳳文化が華々しく開花したのもこの地域である。

    藤原京から平城京へ:律令都城の展開

    7世紀末、持統天皇は飛鳥の北西に、日本初の本格的な条坊制(碁盤の目状の区画)を備えた唐風都城である藤原京を造営した。これにより、それまでの天皇一代ごとに宮を遷す慣例から、恒久的な首都の建設へと大きく転換した。さらに、710年(和銅3年)には元明天皇によって奈良盆地北部に平城京が造営され、大和は名実ともに中央集権的な律令国家の首都としての完成を見る。平城京の時代には、遣唐使を通じた国際的で豊かな天平文化が栄え、聖武天皇による東大寺の盧舎那仏(大仏)造立など、国家仏教の最盛期を迎えた。

    「大和」から「日本」への国号と地名の変遷

    古くは「ヤマト」に対して「倭」という漢字が当てられていたが、8世紀初頭の元明天皇の時代に、諸国の郡郷名を縁起の良い漢字二文字で表記することが定められ(好字二字令)、一時的に「大倭」などと記されたのち、最終的に「大和」という表記が定着した。律令制下においては畿内(五畿)の中心として特別視された。ヤマト王権の支配が列島全体に及ぶにつれ、「ヤマト」という言葉は単なる大和国(現在の奈良県)一国を指すだけでなく、「日本国」全体を意味する呼称としても用いられるようになった。現在でも「大和魂」や「大和撫子」といった言葉に、日本の伝統や精神性を象徴する意味合いとしてその名残が留められている。

  • 畿内(五畿)

    畿内(五畿) (きない(ごき)

    7世紀中葉〜1871年

    【概説】
    都が置かれ、天皇の足元として特別に扱われた大和・山城・河内・摂津・和泉の5か国。古代律令国家において「五畿七道」の中心に位置づけられ、他の地方とは明確に区別されて政治的・経済的特権が与えられた最重要の地域区分である。

    「畿内」の成立と空間的境界

    本来「畿」という文字は、古代中国において王都の周辺や天子の直轄地を意味する概念であった。日本においてこの思想が取り入れられ、具体的な空間的境界として明文化されたのは、飛鳥時代の大化の改新(646年)における「改新の詔」が最初とされている。この詔では、東は名張(三重県)、南は紀伊の兄山(和歌山県)、西は赤石(明石・兵庫県)、北は逢坂山(滋賀県)を境界とする「四至(しし)」が設定され、王権の直轄領域が「内」と「外」に明確に切り分けられた。

    この境界設定は、古代ヤマト王権の伝統的な勢力基盤をベースとしつつも、中央集権的な国家体制を築くにあたり、天皇の足元たる「畿内」と、それに従属する周辺地域という空間的ヒエラルキーを創出する極めて重要な政治的ステップであった。

    四畿内から「五畿」への変遷

    大宝元年(701年)に成立した大宝律令の段階では、畿内は大和・山城・河内・摂津の4か国から構成される「四畿内」であった。これら四か国にはそれぞれ歴代の宮都が置かれた歴史があり、まさに王都のネットワークを形成する地域であった。

    その後、奈良時代の神亀年間(720年代)に河内国から和泉地方が「和泉監(いずみげん)」として一時的に分離され、天平宝字元年(757年)には正式に和泉国として独立した。これにより、従来の四畿内に和泉が加わって「五畿(五畿内)」の体制が確立し、地方行政区画の基本概念である「五畿七道」が完成することとなった。

    律令制下における特権と支配構造

    畿内は、その他の地方(七道の諸国)とは明確に区別され、格段の優遇措置と特別な行政システムが敷かれていた。税制面においては、都での労役の代償である庸(よう)が免除され、特産物を納める調(ちょう)も半減されるなどの特権が与えられていた。さらに兵役や刑罰の適用においても軽減措置がとられた。

    これは、天皇の居住する都の周辺に住む民(畿内人)を優遇することで、王都の治安維持と防衛を安定させる狙いがあった。行政面でも、京を管轄する「左右京職(きょうしき)」や、外交・水上交通の要衝である難波(摂津)を管轄する「摂津職(せっつしき)」など、一般の国司とは異なる特別な官司が置かれ、国家による強力な直接統治が行われた。

    中世・近世への展開と歴史的意義

    平安時代以降、律令制が形骸化し荘園公領制が展開していく中でも、「畿内」という地域概念は「天下」の中心として重い意味を持ち続けた。中世においては、この地域を軍事的・政治的に掌握することが権力者の絶対条件であり、特に室町幕府は畿内の直轄化を権力基盤の核心に据えた。のちの戦国時代において、三好長慶や織田信長といった「天下人」たちがまず畿内の平定を目指したのも、この地が持つ伝統的権威と豊かな経済力に裏打ちされていたからである。

    経済的にも、先進的な農業技術の発達や、瀬戸内海・琵琶湖を通じた水上交通の結節点として繁栄を極めた。この地力は、近世における京都・大坂を中心とした「上方(かみがた)」という巨大な経済・文化圏の形成へと直結していく。明治4年(1871年)の廃藩置県によって行政区画としての役割を終えるまで、「畿内」は日本列島における政治権力と文化の揺るぎない中心地であり続けたのである。

  • 資人

    資人 (律令期)

    【概説】
    律令制下の日本において、三位以上の貴族や特定の皇族に対し、身の回りの世話や護衛を行わせるために国家から支給された官有の従者。位階や役職に応じて支給人数が定められており、貴族の権威を保持するための公的保障制度の一環であった。

    律令体制における資人の定義と配分規定

    大宝律令や養老律令によって整備された日本の律令国家において、官人階級(特に最高幹部である公卿)には様々な特権が与えられた。そのうち、身辺の警護や雑務を担う従者として公的に支給されたのが資人(しじん)である。

    資人の支給人数は、所有者の位階や役職に応じて厳格に定められていた。養老律令の規定によれば、一位の貴族には100人、二位には60人、三位には40人、そして参議(非参議の四位含む場合あり)には30人が与えられた。また、皇太子に仕える「帯刀資人(たちはきのしじん)」や、親王に付く「帳内(ちょうない)」なども同系統の制度である。これらは一般の公民(正丁)の中から徴発され、主家に配属された。

    国家が支える貴族の特権と資人の実態

    資人に選ばれた公民は、主家に奉仕する代わりに、国家に対する最大の負担であった調・庸などの税や、防人・軍団などの兵役が免除(または軽減)される特権を有していた。このため、重い負担から逃れたい公民にとっては、資人として貴族に仕えることは一種の自己防衛策でもあった。

    律令国家がこのような制度を設けた背景には、上級貴族の私生活や威信を国家が公的に支えることで、官僚制の頂点に立つ特権階級の権威を可視化し、秩序を維持する狙いがあった。資人たちは主人が外出する際の行列に加わって威儀を整え、日常の家政雑務をこなすなど、貴族の私的権力を支える基盤として機能した。

    律令制の弛緩と私的主従関係への変容

    平安時代中期に入り、班田収授法の崩壊に伴って戸籍制度が形骸化すると、国家が公民を徴発して貴族に配分する資人制度も維持できなくなった。この結果、資人の支給は名目化し、貴族たちは自らの経済力(荘園の収入など)を用いて、私的な従者を直接雇用するようになっていった。

    このプロセスは、日本の社会構造が律令的な「公的支配」から、私的な「主従関係」へと移行する象徴的な出来事であった。かつて国家から与えられた警護者としての資人の役割は、やがて有力貴族の身辺を守る「侍(さぶらい)」や「家子・郎等」といった私兵集団へと変質し、中世における武士の誕生へとつながる歴史的伏線となった。

  • 季禄

    季禄 (きろく)

    682年制定

    【概説】
    律令制下の日本において、京官(都の役人)に対してその位階に応じて年2回、春と秋に支給された現物給与。官人の生活を支え、国家の官僚機構を維持するための基盤となった重要制度である。

    律令官人の生活を支えた「ボーナス」の実態

    季禄は、毎年2月(春禄)と8月(秋禄)の2回、大蔵省から官人に支給された。支給の基準は、官職ではなく個人の実力や血統に対応する位階(官位)に基づいて細かく定められており、支給品は絁(あしぎぬ)鍬(くわ)といった、当時の社会において実質的な貨幣として機能していた現物であった。これらは地方から中央へと送られた調や庸が財源となっていた。

    律令制下の給与制度には、季禄のほかにも四位・五位の貴族に年1回支給される「位禄(いろく)」や、特定の官職に対して与えられる「職分田(しきぶんでん)」などがあった。その中でも季禄は、五位以上の貴族(通称:通貴)だけでなく、六位以下の一般官人(通常官人)にとっても支給されるものであり、彼らの生計を維持するための最も基本的な経済的命綱であった。

    天武朝における官人支配と「禄制」の成立

    季禄の制度的起源は、大化の改新(645年)以降の公地公民制への移行期に遡る。それまでの氏姓制度下では、豪族たちは自己の私地私民(田荘・部民)から直接利益を得ていたが、国家による中央集権化に伴い、官人(役人)は国家から給与を得て生活する官僚へと転換する必要が生じた。こうした流れの中で、682年(天武天皇11年)に天武天皇が「初めて禄法(禄制)を定む」として給与基準を法制化したのが直接の始まりである。

    この天武朝の禄制が、のちの大宝律令(701年)および養老律令(718年)の「禄令」において、より緻密な体系へと発展した。律令法においては単に位階が高いだけでなく、一定以上の出勤日数(原則として年間120日以上の出勤)を満たしていることが支給の条件とされ、官人の勤務意欲を向上させ、官僚制を円滑に機能させるためのインセンティブとしても機能していた。

    地方財政の破綻と季禄の終焉

    季禄は地方からの調・庸という物資の貢納に完全に依存していた。しかし、平安時代中期(9世紀〜10世紀)に入ると、戸籍の形骸化や偽籍の横行によって律令的な税制が崩壊し、地方からの物資の未納・滞納が常態化する。これにより、大蔵省の倉庫は枯渇し、官人に支給すべき季禄の財源が失われる事態(禄不給)に陥った。

    政府は支給額を減額(半給など)したり、支給の引き延ばしを重ねたりして対応したが、官人たちの困窮は防げなかった。生活できなくなった官人たちは、受領(地方官)となって地方で富を蓄えることを望むようになり、中央の事務系官人は独自の荘園経営や特定の利権に頼るようになっていった。季禄の機能不全と形骸化は、律令国家体制そのものの解体と、中世的な領主社会へと移行していく過程を象徴する出来事であった。

  • 職封

    職封 (しきふ)

    701年〜

    【概説】
    飛鳥時代後期から律令体制下において、太政大臣や大納言など政府の最高幹部層に支給された経済的給与。官位ではなく特定の「官職」に就いている期間に限定して支給される、職務連動型の食封(財源支給制度)である。

    律令国家における給与体系と職封の位置づけ

    飛鳥時代から奈良時代にかけて整備された律令制度のもとでは、中央の官僚(官人)に対して様々な給与制度が設けられた。その中核をなしたのが、特定の戸(封戸)を割り当て、そこから納められる租税の全部または一部を個人の収入とすることを認める食封(じきふ/へいふ)の制度である。

    食封には、皇族の品位に対して支給される品封、個人の持つ位階に対して支給される位封、国家への功績を称えて支給される功封などがあった。これらに対して、職務と連動して支給されたのが職封である。職封は、官位ではなく「特定の官職(職掌)」に就いていること自体を給与の条件としており、その役職を退任・解任された場合には支給が停止されるという「在任中限定」の強い性格を持っていた。

    支給対象と多大な経済的特権

    職封の支給対象は、太政官の最高幹部である公卿、すなわち太政大臣左右大臣、および大納言(後に新設された中納言なども含む)といった最高官職に限定されていた。大宝律令や養老律令の規定によると、太政大臣には3000戸、左右大臣には2000戸、大納言には800戸(のちに公卿の増員等に伴い削減・調整された)という極めて膨大な規模の封戸が支給された。

    封戸の住民からは、本来であれば国家に納められるべき調(特産品)や(労役の代納物)のすべて、および(田地にかかる米)の半分が受給者(封主)に直接徴収された。このため、最高幹部に就任することは、単に高い政治的地位を得るだけでなく、国家的な財源から巨万の富を個人および家門へと還流させることを意味していた。

    職封の歴史的意義と律令制の変容

    職封をはじめとする食封制度は、天武天皇期や持統天皇期の皇親政治から大宝律令の制定(701年)を経て、天皇を中心とする中央集権的な国家体制を経済的に裏付けるために機能した。旧来の氏族が持っていた部民や私有地(部曲など)を公地公民制によって一度国家に回収した上で、改めて官職に応じた報酬として国家が給与を再分配するという、官僚制的な統治システムを構築する上でのインセンティブとなったのである。

    しかし、平安時代中期以降、班田収授法の途絶や戸籍制度の崩壊に伴い、戸を基準とする食封の徴収システムは次第に機能しなくなっていった。職封も名目化し、代わって特定の国からの税収を給与とする国宛(くに当て)や知行国制、さらには荘園制の発達などへと経済構造が変容していくこととなる。

  • 位封

    位封 (いほう)

    7世紀末〜

    【概説】
    律令制において、位階(位)に応じて貴族に支給された経済的特権である食封(じきふ)の一種。国家から与えられた特定の農戸(封戸)から徴収される庸・調の全額(のちに折半)と、租の半分を給与として受け取る制度であり、古代貴族の強力な財政基盤となった。

    律令体制における「食封」と位封の位置づけ

    飛鳥時代末期から奈良時代にかけて日本に導入された律令制では、国家を運営する官僚や貴族の生活を支えるため、緻密な「禄制(給与制度)」が整えられた。その中核をなしたのが、特定の農戸(封戸)を割り当て、そこから徴収される税を給与として直接受け取る権利を与える食封(じきふ)の制度である。

    食封には、皇族に与えられる「品封(ほんぷつ)」や、特定の官職に付随する「職封(しきほう)」などがあったが、個人の持つ位階(ステータス)に応じて支給されたのが位封(いほう)である。律令制下における位階は単なる名誉ではなく、明確な経済的実利を伴うものであり、位封はその最も象徴的な権利であった。

    位階に応じた支給額と対象の拡大

    大宝律令や養老律令の規定によると、位封は当初、三位以上の「貴(たっとき)」と呼ばれる上級貴族のみを対象としていた。正・従一位には300戸、正・従二位には150戸、正・従三位には100戸が支給され、これら封戸の農民が負担する庸・調(のちに折半)と租の半分が貴族の懐に入った。これは当時の水準から見て巨万の富であり、五位以上の「貴族」とそれ以下の「官人」を隔てる決定的な経済的格差を生み出していた。

    しかし、奈良時代後期の天平宝字元(757)年、藤原仲麻呂(恵美押勝)の主導による改革の中で、この位封が四位(30戸)および五位(20戸)の諸大夫(たいふ)層にまで拡大された。この措置は、実務を担う中級貴族層を取り込み、官僚制の忠誠度を高める狙いがあったが、一方で国家が直接手にする税源を減少させ、国家財政を圧迫する一因ともなった。

    位封の変容と古代国家の変質

    本来、位封による税の徴収は、貴族が直接農民から奪うのではなく、地方官である国司を仲介して受給者に届ける「官送(かんそう)」が原則であった。これは、貴族が土地や人民を直接支配することを防ぎ、「公地公民」の建前を維持するためのシステムであった。しかし、平安時代に入り律令体制が弛緩すると、貴族による封戸への直接的・私的な支配(領主化)が強まっていく。

    さらに、10世紀に律令的税制が崩壊すると、国家が封戸から税を徴収して貴族に配分するシステム自体が機能しなくなった。これにより位封は事実上崩壊し、貴族たちは新たな経済的基盤として、地方の有力者から寄進される荘園の領有や、受領国司との結びつきへと依存を強めていくこととなる。位封の変遷は、古代日本が中央集権的な律令国家から、中世的な権門体制へと変質していく過程を如実に示している。

  • 賜田

    賜田 (しでん)

    飛鳥時代〜平安時代

    【概説】
    天皇からの特別な恩賞として、特定の皇族や貴族、寺社などに個別に支給された田地。公地公民制を基本とする律令制下において、原則的な班田収授の枠外に位置づけられた特権的な土地所有の一形態である。

    律令体制における「賜田」の制度的性格

    飛鳥時代後期から奈良時代にかけて、日本は唐の制度にならった律令国家の建設を進めた。その土地制度の基本は、すべての土地と人民を国家の支配下におく「公地公民制」であり、人々に一定の田地を分け与える班田収授法が施行された。しかし、制度の円滑な運用や権力構造の維持のためには、例外的な土地支給が不可欠であった。その一つが「賜田」である。

    賜田は、位階や官職に応じて一律に支給される位田(いでん)や職田(しきでん)とは異なり、天皇の「勅」という個別具体的な命令によって臨時に与えられた。主な対象は、国家や皇室に特別な功績のあった皇族、貴族、または有力な寺社などであった。制度上は受給者の生存中、あるいは一定の年限に限って認められる一代限りの田地であったが、実際にはその特権性が維持されやすかった。

    不輸租特権と初期荘園への展開

    賜田の歴史的重要性を決定づけたのは、その税制上の優遇措置である。国家に税を納める「輸租田(ゆそでん)」に対して、賜田の多くは税が免除される「不輸租田(ふゆそでん)」として扱われた。この免税特権は、受給者である有力貴族や寺社にとって極めて高い経済的価値をもたらした。

    国家による班田収授の維持が困難になり、743年に墾田永年私財法が発布されて私有地拡大の動きが本格化すると、これら賜田は実質的な私有地(私領)へと転化していった。貴族や寺社は支給された賜田を足がかりに周辺の土地を取り込み、のちの初期荘園へと発展させていく。このように、賜田は公地公民制という原則を内側から形骸化させ、中世の荘園公領制へと移行する歴史的契機の一つとなった点で極めて重要な意義を持つ。