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  • 右大臣

    右大臣

    671年〜1885年

    【概説】
    日本の律令制における最高国家機関・太政官の長官に次ぐ重職。左大臣の次席として、ともに国政の合議と決定を行った。飛鳥時代に端を発し、明治時代に内閣制度が創設されるまで存続した。

    律令制下の太政官における位置づけ

    律令制において、国政を統括する最高機関である太政官には、長官として太政大臣が置かれていた。しかし、太政大臣は「則闕の官(そっけつのかん)」と呼ばれ、適任者がいなければ置かれない名誉職的性格が強かった。そのため、日常の政務を統括する事実上の最高責任者は左大臣であり、右大臣はその次席として国政の合議と執行を担う要職であった。

    官位相当は正二位または従二位であり、天皇を補佐し、八省などの下部機関を指揮監督する強大な権限を有した。日本の律令制は唐の制度を模倣しているが、独自の太政官制のなかに組み込まれたものである。古来の日本や中国において「左を右より尊ぶ」という思想があったため、左大臣が上位、右大臣が下位とされた。

    職掌と左大臣との関係

    右大臣の基本的な職務は左大臣と共通しており、朝廷における公卿会議の主宰や、国家の重要案件についての天皇への奏上など多岐にわたった。通常時は左大臣を補佐する立場にあったが、左大臣が欠員の場合や、病気などで職務を遂行できない場合には、右大臣が太政官の筆頭(一上:いちのかみ)として政務を代行した。

    平安時代中期以降、合議制の公卿会議である陣定(じんのさだめ)が国政の中心となると、右大臣は左大臣とともに会議を主導し、政治的決定において決定的な役割を果たした。また、右大臣の下には内大臣や大納言が置かれ、彼らとともに太政官の上層部を形成した。

    飛鳥時代における創設から藤原氏の台頭まで

    右大臣という名称が記録上に初めて現れるのは、飛鳥時代の天智天皇10年(671年)である。このとき、大友皇子が太政大臣、蘇我赤兄が左大臣、そして中臣金(なかとみのかね)が右大臣に任じられた。その後、飛鳥浄御原令や大宝律令を通じて制度として確立していく。

    平安時代に入り、藤原北家が台頭して摂関政治を確立する過程で、右大臣のポストは極めて重要な意味を持った。藤原氏の有力者は、多くの場合、まず右大臣に任じられて政権の中枢に入り、その後、左大臣や太政大臣へと昇進して摂政・関白を務めるという出世ルートを歩んだ。権力闘争の舞台において、右大臣の地位を獲得することは、政界の頂点を目指すための不可欠なステップであった。

    武家政権時代から近代への継承と終焉

    鎌倉時代以降、政治の実権が武家に移ると、太政官の職は実質的な行政権を失い、朝廷内の儀式や名誉を司る官職へと変化していった。しかし、右大臣という官職名は高い権威を持ち続けた。例えば、鎌倉幕府第3代将軍の源実朝は武家として初めて右大臣に昇り、のちには織田信長や徳川家康らも右大臣に任官している。武家の最高権力者たちにとって、右大臣の地位は自らの支配を権威づけるための重要な装置として機能したのである。

    時代を下り、明治維新後の1869年(明治2年)に太政官制が復活すると、右大臣の職も再び実質的な国政の要職として復活した。三条実美や岩倉具視らがこの職に就き、近代国家建設の黎明期を指導したが、1885年(明治18年)の内閣制度創設に伴い、太政官制とともに右大臣の職は廃止され、飛鳥時代から1000年以上にわたる長い歴史に幕を下ろした。

  • 右衛士府

    右衛士府 (うえじふ)

    701年〜811年

    【概説】
    律令制下における宮廷軍事組織である「五衛府」の一つ。諸国から徴発されて上京した衛士(えじ)を率い、左衛士府とともに宮城(大内裏)の警備や行幸の供奉、夜間の巡邏などを担った右側の部隊である。

    律令体制における「五衛府」の確立と衛士の動員

    大宝元年(701年)に制定された大宝律令により、中央の軍事・警備組織として五衛府(衛門府、左右兵衛府、左右衛士府)が整備された。右衛士府はその中枢を担う実力組織として位置づけられた。その主力となったのは、全国の軍団から選抜されて1年交代で上京した衛士と呼ばれる兵士たちである。

    衛士は地方の農民(正丁)から徴発された兵士であり、現地までの旅費や京での食糧、衣服などは原則として自己負担(自弁)であったため、その負担は極めて過酷であった。右衛士府は、こうした厳しい条件のもとで動員された地方の壮丁たちを管理・統率し、組織的な宮中治安維持活動を行う役割を担っていた。

    宮城警備における左右の分担と具体的任務

    右衛士府は、対となる左衛士府とともに宮城内の日常的な警備に従事した。古代日本においては、天皇から見て南面する思想に基づき、東側を「左」、西側を「右」としたため、右衛士府は宮城の西半分の警備を担当した。主に大内裏の西側に位置する諸門の警備や、夜間における宮殿内の巡邏(パトロール)を行い、不審者の侵入や火災の発生を防ぐ重要な任務を負っていた。

    また、天皇の行幸や主要な朝廷儀式の際には、武装して皇帝の威儀を示すための警護役として供奉した。このように右衛士府は、物理的な宮城の防衛のみならず、中央集権国家としての天皇の権威を可視化するための軍事装置としての性格も持ち合わせていた。

    軍団制の動揺と衛士府の変容

    奈良時代中期以降、律令支配の根幹であった公地公民制が揺らぎ始めると、重い兵役や自弁の負担に耐えかねた農民の逃亡が相次ぎ、衛士の質的低下と人数不足が深刻化した。これにより、従来の農民徴兵制(軍団制)に依存する衛士府の警備体制は機能不全に陥り、都の治安悪化の一因となった。

    こうした状況に対応するため、平安時代初期の嵯峨天皇の治世において、中央軍制の大規模な整理統合が断行された。弘仁2年(811年)、右衛士府は衛門府および左衛士府と再編され、新たに左右衛門府へと統合された。これにより右衛士府はその歴史的役割を終え、以後は検非違使(けびいし)の台頭など、実態に即した新たな治安維持体制へと移行していくこととなる。

  • 左衛士府

    左衛士府 (さえじふ)

    701年設置

    【概説】
    律令制下における中央軍事組織である五衛府(ごえふ)の一つ。諸国の軍団から上京した衛士(えじ)を配備・統率し、宮城の警備や行幸の護衛を担った官司。

    律令国家の宮廷警備体制と「五衛府」の成立

    大宝律令(701年)の制定によって、天皇を中心とする律令国家の支配体制が確立されると、中央の宮廷警備および軍事組織として五衛府(のちに六衛府)が整備された。五衛府は、衛門府(えもんふ)、左衛士府・右衛士府、左兵衛府(ひょうえふ)・右兵衛府から構成されていた。このうち、左衛士府は右衛士府と対になり、天皇の所在する宮城の防衛を実質的に担う中核的な軍事官司であった。宮城内を左右に分割し、主に東側(左側)の警備や、天皇の行幸時における左翼の供奉(護衛)を担当した。

    「衛士」の役制と地方農民の過酷な負担

    左衛士府の兵力の主体となったのは、諸国の軍団から徴発されて都へ上京した衛士(えじ)と呼ばれる兵士たちであった。衛士は戸籍に基づいて正丁(成人男性)から選ばれ、任期は原則として1年(のちに延長)とされた。彼らの任務は宮城の各門の監視や夜間の巡邏など多岐にわたったが、その実態は極めて過酷であった。都への往復の旅費、滞在中の食糧、さらには衣服や武器に至るまで、すべて自己負担(自弁)とされていたためである。この衛士役の負担は農民にとって極めて重く、借財の累積や、班田収授法を基盤とする律令体制そのものの崩壊要因となる「浮浪・逃亡」を誘発する一因となった。

    平安初期の軍制改革と検非違使への移行

    平安時代に入ると、地方の軍団制の崩壊に伴い、衛士の質的低下と兵力不足が深刻化した。これに対して、桓武天皇や嵯峨天皇の時代に大規模な軍制改革が行われ、大同3年(808年)には衛門府が左右の衛士府に統合されるなど、再編が進んだ。弘仁2年(811年)には左右衛士府・左右兵衛府・左右衛門府の六衛府体制へと改編されたが、実際の治安維持能力は低下し続けた。やがて、平安中期に都の治安維持を専門に担う検非違使(けびいし)が台頭すると、左衛士府をはじめとする六衛府は実質的な警察・軍事権限を失い、儀式的な存在(名誉職としての官職)へと形骸化していった。

  • 衛門府

    衛門府 (えもんふ)

    701年〜

    【概説】
    律令制下の二官八省百官の体系において、宮廷の警備を担った五衛府(のちに六衛府)の一つ。宮城(天皇の御所)の外門の警備や、門を通行する人々の監視・検察を主な任務とした官司。飛鳥時代末期の大宝律令によって整備され、宮廷および都の秩序を維持する上で重要な役割を果たした。

    律令国家の形成と五衛府の確立

    大宝律令(701年)の制定にともない、律令国家の中央軍事・警察組織として五衛府(衛門府、左右衛士府、左右兵衛府)が整備された。衛門府はその中核的な存在であり、天皇の在所である宮城(大内裏)の外郭の門を警備し、国家の秩序と権威を守る象徴的な役割を担った。飛鳥時代末期から奈良時代にかけて、律令官僚制の進展とともにその組織や機能が確固たるものへと整えられていった。

    衛門府の職掌と組織構成

    衛門府の主な任務は、宮城の諸門の警備と開閉、そして門を通行する者の身元や通行証(門籍)の確認であった。これに加えて、京内のパトロール(巡検)や、天皇が行幸する際の供奉(お供)などの治安維持活動も担当した。組織の構成としては、長官である衛門督(かみ)を頂点に、佐(すけ)、尉(じょう)、志(さかん)の四等官が置かれた。実際の警備にあたる実戦力としては、諸国から徴発された衛士(えじ)のほか、門の警備を専門とする門部(かどべ)や、南九州の異民族とされた隼人(はやと)らが配属され、厳重な警備体制を敷いていた。

    治安維持機能の変遷と検非違使への移行

    奈良時代後期から平安時代初期にかけて、近衛府の権限強化などの組織改編が進み、弘仁2年(811年)には左右の衛士府を統合・吸収する形で左右衛門府へと再編された(いわゆる六衛府体制)。しかし、平安時代中期に入ると律令制が次第に弛緩し、深刻化する都の治安悪化に対応するため、天皇直属の警察組織である検非違使(けびいし)が台頭することとなる。やがて検非違使の別当(長官)や尉(判官)を、衛門府の官人が兼任することが一般化していった。これにより、衛門府が持っていた実質的な警察・裁判機能は次第に検非違使へと吸収され、衛門府自体は形式的な儀礼組織として名骸化していくこととなった。

  • 五衛府

    五衛府 (ごえふ)

    701年〜

    【概説】
    古代律令国家において、宮城(天皇の宮殿)の守護や京内の警備、天皇の身辺護衛などを担当した5つの武官役所の総称。大宝律令の制定によって組織が整備され、天皇を頂点とする中央集権的な軍事・警察体制の根幹を担った。衛門府、左右の衛士府、左右の兵衛府から構成される。

    律令体制の構築と五衛府の誕生

    天武・持統天皇期から本格化した律令国家の形成過程において、天皇の権力を軍事的に裏付け、宮廷の安全を確保する組織の整備は急務であった。大宝元年(701年)に完成した大宝律令によって、それまで不完全であった宮廷警備組織が体系化され、「五衛府」として正式に発足した。

    五衛府の成立以前、古墳時代から飛鳥時代にかけては、物部氏や大伴氏、佐伯氏といった伝統的な軍事豪族(伴造)が、それぞれの私的な武力(部民など)を率いて宮廷を警護していた。これに対し、五衛府の設置は豪族主導の軍事体制を解体し、国家が公的に徴発した兵士を直接統制する中央集権的な軍事・警備体制へと転換させた点において、日本史上の極めて重要な転換点となった。

    五衛府の構成とそれぞれの役割

    五衛府は、その機能や配置される兵士の出自によって、衛門府(えもんふ)左衛士府(さえじふ)・右衛士府(うえじふ)左兵衛府(さひょうえふ)・右兵衛府(うひょうえふ)の5つに分かれていた。

    衛門府は、宮城の外郭にある各門(宮門)の警備や出入りの監視、および門部(かどべ)や隼人(はやと)の管轄を担当した。
    左右の衛士府は、律令制下の戸籍に基づいて諸国から徴発された軍団の兵士(衛士)から選抜され、宮城内の各所の守備や京内の夜間巡邏、天皇の行幸の警備などを広く担った。
    左右の兵衛府は、地方の有力豪族である郡司の子弟や都の官人の子弟から選ばれた兵衛(ひょうえ)によって構成され、天皇の最も近くで身辺の直接的な護衛や内裏の護衛にあたった。これらは、出自や身分によって役割が厳格に分担された合理的な官制であった。

    変遷と「六衛府」への再編、そして形骸化へ

    奈良時代中期以降、天皇権力をより強固にするため、身辺警護を強化する新たな軍事組織が求められるようになった。聖武天皇期には、従来の五衛府とは別に天皇直属の武力として授刀衛(じゅとうえ)が設置され、これが後に近衛府(このえふ)へと発展した。
    弘仁2年(811年)には、衛士府と衛門府が統合されるなどの再編が行われ、最終的に近衛府・兵衛府・衛門府(それぞれ左右に分かれる)からなる六衛府(ろくえふ)の体制へと移行した。

    しかし、平安時代中期に入ると、公地公民制や戸籍制度の崩壊に伴って律令制に基づく兵役(軍団・衛士制度)が維持できなくなり、六衛府は実質的な警備機能を急速に失っていった。京都の治安維持や警備の実務は、新設された検非違使(けびいし)へと移り変わり、六衛府自体は貴族たちの儀式的な名誉職へと形骸化していった。この国家公式の軍事力の空白を埋める形で、地方や都において自衛と武力を組織した「武士」が台頭していくこととなる。

  • 弾正台(飛鳥時代)

    弾正台 (だんじょうだい)

    701年〜1871年

    【概説】
    律令制において、官人の不正を監視・摘発し、社会の風紀を取り締まった監察機関。「二官八省」の行政組織から独立した「一台」として、天皇直属の強い権限を持った官司である。

    「二官八省」と並び立つ「一台」としての独立性

    大宝律令において整備された日本の律令官制は、神祇官・太政官の「二官」と、その下部組織である「八省」を基幹とした。しかし、弾正台(だんじょうだい)はこの枠組みから独立した「一台」として設置された。その主な任務は、中央および地方の官人の非違(違法行為や不正)を糾弾し、都の風紀を維持することであった。行政を司る太政官から独立した地位を与えられることで、官人たちの不正に対して公正かつ厳格な監察を行うことが可能となったのである。

    飛鳥時代における成立背景と「唐」の制度の受容

    弾正台が法制的に確立したのは701年の大宝律令であるが、その源流は飛鳥時代後期の天武・持統天皇期(7世紀後半)に遡る。急速な中央集権化が進む中、官僚機構の肥大化に伴う役人の腐敗や、元豪族たちの規律の緩みを統制することが急務となった。天武天皇期に派遣された巡察使や、689年の飛鳥浄御原令における制度的模索を経て、監察機関としての組織化が進んだ。これは、唐の監察機関である「御史台(ぎょしだい)」を手本としつつも、日本の国情に合わせて「一台」として独立させたもので、天皇を頂点とする専制的な支配体制を維持するための不可欠な装置であった。

    平安期における機能の変遷と「検非違使」への移行

    奈良時代を通じて弾正台は官人の監視に一定の役割を果たしたが、平安時代に入ると徐々にその実権を失っていく。9世紀前半、嵯峨天皇の時代に設置された検非違使(けびいし)は、当初は京都の治安維持を目的とする臨時の職(令外官)であったが、次第に司法・警察の権限を一手に行使する強力な組織へと成長した。その結果、弾正台が持っていた警察的・監察的な実権は検非違使に奪われ、弾正台は形骸化した名誉職としての組織へと変化していった。その後、明治維新期の1869年に一時的に近代的な司法監察機関として復活したものの、1871年に司法省へと統合されてその歴史を終えた。

  • 一台

    一台 (いちだい)

    701年

    【概説】
    大宝律令によって整備された中央官制において、官人の不正や風紀の乱れを厳しく監視・糾弾した独立監察機関「弾正台(だんじょうだい)」の別称。行政組織である太政官から独立した地位を保ち、官僚機構の健全性を維持する役割を担った存在である。

    「二官八省一台」における特異な位置づけ

    飛鳥時代の701年に制定された大宝律令により、日本の古代国家体制は唐の律令制を手本として本格的に整備された。中央官制においては、祭祀を司る神祇官と政務を司る太政官の「二官」、太政官の下に置かれた「八省」が行政の中核を成したが、これらとは系統を異にする独立した機関として設置されたのが弾正台(一台)である。このことから、中央官制はしばしば「二官八省一台」と称される。一般の行政ラインから切り離された独立性を与えられたのは、最高幹部を含むすべての官人の非行や違法行為に対して、忖度のない厳格な監視と弾劾を行うためであった。

    「一台」の職掌と唐制の影響

    「一台」という名称は、唐の監察機関である「御史台」の別名(唐名)に由来する。日本の一台(弾正台)も同様の役割を担い、長官である弾正尹(だんじょうのかみ)以下、所属する官人たちが平城京(のちの平安京)内や各官庁を巡察し、不法行為や風紀の乱れを厳しく取り締まった。一台の持つ糾弾権は極めて強力であり、官人の罪状を太政官の審議を経ることなく、天皇に直接奏上(直奏)することが認められていた。これは、天皇の直属機関として官僚の暴走や汚職を防ぎ、天皇専制支配を支えるための重要な装置であったことを示している。

    検非違使の台頭と「一台」の形骸化

    奈良時代を通じて官人の風紀維持に貢献した一台であったが、平安時代に入ると社会の変化に伴ってその機能は大きく変質していく。平安初期、嵯峨天皇によって弘仁年間に検非違使(けびいし)が設置されると、それまで弾正台や衛府、刑部省などが分掌していた警察・司法・監察の権限が徐々に検非違使へと一元化されていった。これにより、治安維持の実権を奪われた一台は次第に実質的な職務を失い、形骸化していった。しかし、官制上の格の高さは維持されたため、平安後期以降も弾正尹などのポストは公家たちの家格を示す名誉職(官職の身分象徴)として残り続けた。

  • 宮内省(飛鳥時代)

    宮内省 (くないしょう)

    701年〜

    【概説】
    大宝律令の制定にともない設置された、二官八省制における八省の一つ。天皇の衣食住や宮中での日常生活の支援、皇室の財産管理など、天皇および皇室の私的な家政全般を統括した行政機関。

    律令体制における宮内省の位置づけ

    飛鳥時代後期から奈良時代にかけて、日本は唐の律令制度を範にとった中央集権的な国家体制(律令制)を構築した。701年の大宝律令の制定によって「二官八省」の官僚組織が完成すると、宮内省はその八省の一つとして位置づけられた。宮内省は、国政の最高機関である太政官の傘下にあり、右弁官が管轄する四省(兵部省・刑部省・治部省・宮内省)の一部を構成した。国家の一般的な政務を司る他の七省とは異なり、宮内省は天皇の私的生活の保障と、宮廷の維持運営に特化した極めて特殊な役割を担っていた。

    天皇の家政を支えた多様な下部組織

    宮内省の長官である宮内卿(くないのかみ)の下には、多岐にわたる専門業務を処理するために多くの下部組織(職・寮・司)が置かれた。代表的なものとして、宮中での大規模な饗宴や天皇の食事を司る大膳職(だいぜんしき)、皇室の調度品や衣類の管理、宮中の掃除を行う掃部司(かもりづかさ・のちの掃部寮)、皇室の私的な財宝や進上物を管理する内蔵寮(くらりょう)、宮廷の水や氷を調達する主水司(もんどつかさ)などが挙げられる。これらは天皇の身辺に直結する機関であり、宮内省が宮廷の物質的基盤をすべて支えていたことを示している。

    「公」と「私」の境界線と宮内省の歴史的意義

    古代の日本において、国家の公的な職務と天皇の私的な用務は明確に分離されておらず、天皇の生活を維持することはそのまま国家の最高公務とみなされていた。宮内省という国家機関が皇室の家政を担当したことは、その象徴と言える。しかし、平安時代に入ると、天皇の秘書的役割を果たす蔵人所(くろうどどころ)が設置され、天皇の私的な権力が蔵人所に集中するようになると、宮内省の本来の機能は次第に形骸化していった。それでもなお、宮廷の儀式や先例を維持する官司としての宮内省の組織は、中世・近世を通じて存続し、近代の明治政府における宮内省へと引き継がれることとなった。

  • 大蔵省(飛鳥時代)

    大蔵省 (おおくらしょう)

    701年

    【概説】
    大宝律令の制定によって整備された二官八省制において、太政官に属した八省の一つ。諸国から貢納された調や庸などの税の保管・出納や、貨幣および度量衡の管理などを統括した財政官庁。

    大宝律令と「三蔵」の再編

    大蔵省の起源は、律令制以前の大和政権期に設置されていた「三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)」にある。特に官物を保管した大蔵(おおくら)の管理を担っていた渡来系氏族の東漢氏(やまとのあやうじ)などの伝統的な役割が、701年の大宝律令制定に伴う官制改革によって、体系的な中央官庁へと再編された。こうして成立した大蔵省は、天皇個人の財産を扱う内蔵寮(宮内省に属する)とは明確に区別され、律令国家全体の公的財政を管理する最高機関として位置づけられた。

    調・庸の管理と度量衡の統一

    大蔵省の主要な任務は、地方から中央へ送られる調(ちょう)庸(よう)をはじめとする貢納物の出納と管理である。これらは繊維製品や特産品など多岐にわたり、当時の国家財政の主軸をなしていた。また、大蔵省は貨幣の鋳造・管理に加え、全国の度量衡(長さ・体積・重さの基準)を統一・維持する権限も有していた。度量衡の公定は、徴税を公平かつ正確に行うための大前提であり、律令国家による中央集権的な経済統制を支える重要な基礎となった。

    民部省との役割分担

    律令制下の財政官庁には、大蔵省のほかに民部省(みんぶしょう)が存在した。この両省は密接に関係しながらも明確に役割が分担されていた。民部省が戸籍・計帳の管理や租税の徴収・企画といった「民政および租税の上流工程」を担ったのに対し、大蔵省は実際に納められた財物の実物管理や出納、各種の製作物の管理といった「財務の実務および下流工程」を専門とした。このような組織的分業体制により、飛鳥時代から奈良時代にかけての中央集権的な国家運営が維持されていたのである。

  • 刑部省(飛鳥時代)

    刑部省 (ぎょうぶしょう)

    701年

    【概説】
    大宝律令の制定にともない整備された二官八省制において、司法全般を管轄した中央官庁。律令法に基づく裁判の審理や刑罰の決定、およびそれらに付随する行刑や監獄の管理などを担当した。

    律令国家における司法の中枢

    飛鳥時代末期から奈良時代にかけて、唐の律令制度を模範とした中央集権的な国家体制の構築が進められた。大宝律令(701年)の制定により、中央官制として「二官八省」が整備され、その八省の一つとして設置されたのが刑部省である。刑部省は、天皇や太政官の統制のもと、国家の法秩序を維持するための司法・警察機能の実務を担った。

    当時の日本は、天皇を中心とする「法による統治(律令政治)」を目指しており、刑部省はその根幹をなす機関であった。それまでの氏姓制度のもとでの私的な制裁や慣習法による裁判を排し、成文化された「律(刑法)」に基づき、国家が統一的な基準で裁判や刑罰を行う象徴的な存在であったと言える。

    刑部省の具体的な職掌と組織

    刑部省の主な任務は、重大な犯罪に対する裁判の審理、判決の確定、そして刑罰の執行管理であった。律令法で定められた五刑(笞・杖・徒・流・死)のうち、特に重い刑罰(徒・流・死)の判定や、その前提となる法解釈の審査(「法判」)を行った。また、過失や不当な裁判に対する抗告(再審理)の受付も担当した。

    組織の長である刑部卿(ぎょうぶきょう)のもとには、実務を指揮する大輔・少輔などの四等官が置かれ、さらに法解釈や裁判の実務を専門とする判事(大判事・中判事・少判事など)が配属された。これにより、恣意的な審判を防ぎ、客観的な法適用が図られた。さらに、刑部省の被官(下部組織)として、都の治安維持や監獄の管理、囚人の監視を行う囚獄司(しゅごくし)や、贓物(盗品)の管理などを行う都治部司などが置かれ、司法から行刑にいたる一貫したシステムが構築されていた。

    治安維持組織の変遷と同時代的意義

    飛鳥時代に端を発した律令制は、平安時代に入ると貴族社会の変容や社会情勢の変化に伴い、次第に形骸化していった。司法面においては、平安初期に嵯峨天皇によって設置された令外官である検非違使(けびいし)が急速に権限を拡大した。検非違使は本来、京都の治安維持を目的とする警察組織であったが、次第に裁判や刑の執行といった司法権全般をも掌握するようになった。

    この検非違使の台頭により、律令に規定された本来の司法システムである刑部省や弾正台、衛門府などの権能は著しく縮小し、刑部省は名目的な存在へと変質していった。しかし、飛鳥時代において刑部省が創設され、法に基づく裁判制度が一時的にせよ確立されたことは、日本が古代の「氏族国家」から「法治国家」へと脱皮を遂げる上での画期的な一歩であった。