右衛士府 (うえじふ)
【概説】
律令制下における宮廷軍事組織である「五衛府」の一つ。諸国から徴発されて上京した衛士(えじ)を率い、左衛士府とともに宮城(大内裏)の警備や行幸の供奉、夜間の巡邏などを担った右側の部隊である。
律令体制における「五衛府」の確立と衛士の動員
大宝元年(701年)に制定された大宝律令により、中央の軍事・警備組織として五衛府(衛門府、左右兵衛府、左右衛士府)が整備された。右衛士府はその中枢を担う実力組織として位置づけられた。その主力となったのは、全国の軍団から選抜されて1年交代で上京した衛士と呼ばれる兵士たちである。
衛士は地方の農民(正丁)から徴発された兵士であり、現地までの旅費や京での食糧、衣服などは原則として自己負担(自弁)であったため、その負担は極めて過酷であった。右衛士府は、こうした厳しい条件のもとで動員された地方の壮丁たちを管理・統率し、組織的な宮中治安維持活動を行う役割を担っていた。
宮城警備における左右の分担と具体的任務
右衛士府は、対となる左衛士府とともに宮城内の日常的な警備に従事した。古代日本においては、天皇から見て南面する思想に基づき、東側を「左」、西側を「右」としたため、右衛士府は宮城の西半分の警備を担当した。主に大内裏の西側に位置する諸門の警備や、夜間における宮殿内の巡邏(パトロール)を行い、不審者の侵入や火災の発生を防ぐ重要な任務を負っていた。
また、天皇の行幸や主要な朝廷儀式の際には、武装して皇帝の威儀を示すための警護役として供奉した。このように右衛士府は、物理的な宮城の防衛のみならず、中央集権国家としての天皇の権威を可視化するための軍事装置としての性格も持ち合わせていた。
軍団制の動揺と衛士府の変容
奈良時代中期以降、律令支配の根幹であった公地公民制が揺らぎ始めると、重い兵役や自弁の負担に耐えかねた農民の逃亡が相次ぎ、衛士の質的低下と人数不足が深刻化した。これにより、従来の農民徴兵制(軍団制)に依存する衛士府の警備体制は機能不全に陥り、都の治安悪化の一因となった。
こうした状況に対応するため、平安時代初期の嵯峨天皇の治世において、中央軍制の大規模な整理統合が断行された。弘仁2年(811年)、右衛士府は衛門府および左衛士府と再編され、新たに左右衛門府へと統合された。これにより右衛士府はその歴史的役割を終え、以後は検非違使(けびいし)の台頭など、実態に即した新たな治安維持体制へと移行していくこととなる。