左兵衛府 (さひょうえふ)
【概説】
律令制下の二官八省五衛府体制において、宮城の警備や天皇の護衛を司った軍事組織。武芸に秀でた地方豪族の子弟(兵衛)によって組織され、天皇の直接の警護や行幸の供奉を行うなど、宮廷防衛の核心を担った。
律令官制における「衛府」の整備と左兵衛府
大宝律令(701年)および養老律令(718年)の制定により、古代日本の国家組織は法的な整備を見た。このなかで、天皇の居住する宮城を護衛するために「五衛府(のちに六衛府)」と呼ばれる軍事組織が編成された。左兵衛府は、右兵衛府と対をなす組織としてこの一角を占めた。宮城の守護において、外側の警備を担う衛門府や衛士府に対し、兵衛府は天皇の身辺に近い内廷の警備を担当する、より直属性の高い精鋭部隊としての性格を有していた。
「兵衛」の選出とその政治的意義
左兵衛府を構成する「兵衛」は、一般の農民から徴兵された衛士(えじ)とは異なり、地方の郡司などの有力豪族の子弟(中流以上の身分)から、武芸、特に弓馬の術に優れた者が選抜された。これには、地方豪族の子弟を宮廷に人質として留め置くことで地方の反乱を抑止するとともに、天皇への忠誠心を養わせるという高度な政治的目的があった。彼らは天皇の乗り物の警備(供奉)や儀式での整列など、華々しい宮廷行事において天皇の威光を演出する役割も果たした。唐の制度に倣い「左」が「右」の上位に置かれたため、左兵衛府は右兵衛府よりも格上とされた。
武士の台頭と官職の形骸化
平安時代中期以降、国衙軍制の変容や律令体制の崩壊に伴い、従来の郡司層を基盤とした兵衛制度は徐々に形骸化していった。実際の治安維持や警備の任務は、新たに組織された検非違使や、武芸を専門とする「武士(もののふ)」へと移り変わった。しかし、左兵衛府の官職である「左兵衛督(かみ)」や「左兵衛佐(すけ)」などの職名は、武門の誉れ高い名誉職として残り続けた。のちの鎌倉時代や室町時代の武士たちにとって、兵衛府の官職を得ることは一流の武家としての格式を示すステータスシンボルとなり、受領名(官途名)として広く用いられることとなった。